律法の真意5「あなたの隣人を愛せ」(マタイの福音書5章43節~48節)

1 当時のユダヤ人が聞いていた律法

当時のユダヤ人は、『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と聞いていたようです。「あなたの隣人を愛し」ということは、レビ記19:18に出てきます。しかし、旧約聖書のどこを見ても、「憎め」という命令はでてきません。これは、当時の人々の思い込みでした。イエスさまは、そのようなユダヤ人に律法の真意を伝えようとします。

2 敵を愛し迫害する者のために祈れ

イエスさまは、律法の真意が「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈る」(5:44)ことであることを告げます。 「愛する」というのは、相手に対して好意をもつ、敬意をもつ、相手を喜ぶ、歓迎するということです。相手が何かしてくれるから「愛する」ということではありません。相手にまったく価値がなくても「愛する」ことです。たとえ相手が自分の敵であっても、自分を迫害する者であっても祈りなさいというのがイエス様のご命令です。イエスさまのご命令がいまにハードルの高いものであるかということが分かります。
後にイエスさまが完成させ、私たちを入れてくださろうとしている神の国ではこの命令が完全に実行されます。やがて来る神の国は、神さまの御支配される世界です。そこは、愛と喜びと平安に満ちた世界です。この世においてもイエスさまのご命令どおりに歩むことができれば幸いです。この世は、報復の悪循環に満ちています。しかし、イエスさまのご命令どおりに生きることができたら、愛の良循環が生まれます。この世にやがて来る神の国と同じ世界が実現します。

3 「神の子ども」の祈り

しかし、私たちは、心から、「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈る」ことができません。そのような私たちにとってダビデの祈りは模範です。
詩篇69篇においてダビデは、自分の敵にいのちを狙われ、死の淵を歩み、苦しみました。そのときダビデは、敵を愛し迫害する者のために祈っていません。彼らがこの世で咎を受け、永遠の裁きを受けるように祈ります。それは、ダビデが心底神さまを信頼していたからです。ダビデは信頼する神さまに子どものように自分の苦しい思いをありのまま訴えたのです。
ダビデのように、いいことも、悪いことも、失敗も、すべて父の前に告白し、父の胸に飛び込むこと、それは、神の子どもの歩みです。私たちは、御言葉に歩めない苦しみの中で神の子どもの祈りをすれば良いのです。

4 イエスさまの愛

私たちが神の子どもの祈りをするとき、イエスさまが私たちとおもにおられます。そしてイエスさまが私たちとともに祈ってくださいます。私たちの祈りを神さまに取りなしてくださいます。
そして、私たちが神の子ども祈りを祈って行くとき、聖霊によって「私こそイエスさまの敵であった」ということに気付かされます。しかし、聖霊は同時に「イエスさまは、敵である私を愛して、私のために祈ってくださった」ということも示してくださいます。 イエスさまは私の罪のために十字架にかかってくださいました。十字架の上で死んでくださいました。イエスさまの十字架の死によって私の罪を一切引き受けてくださったのです。

5 完全でありなさい

イエスさまは、完全でありなさい。 (5:48) と語られました。私たちはこの世において、イエスさまの御言葉を真摯に受け止め、神の子どもの祈りをしていくとき、敵を愛するという奇跡を見せていただくことがあります。愛の好循環に入れていただくときがあります。しかし、この世の歩みは不完全です。完全に人を愛し抜くことができません。しかし、この御言葉は、「来たるべき未来の世界、『神の国』において、あなたは完全なものになるのだ。あなたは、敵を愛し、迫害する者を愛するという者になるのだ」というメッセージでもあります。ですから、私たちは、天におられる私たちの父の子どもとして、希望をもってこの世界を歩んで行きたいと願います。
この世では、聖霊によってせまりがあります。「私には、『いやだなあ』と心の中で思う人がいる。」「私には、愛せない人がいる。」そのときは、神さまの子どもとして、ありのまま祈り、イエスさまの導きを受けていきましょう。神さまは、そのようなあなたを完全な者としてくださいます。

(2025年4月13日 石原俊一 師)

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