主の祈り⑤日々の糧を与えてください(マタイの福音書6章11節)

私たちは、イエスさまが教えてくださったマタイ6:11に3つを願いを込めて祈ります。

1 神さまの御支配の中で生活すること

一つ目は、神さまの御支配の中を生活することです。神さまはこの世界のすべてを御支配されています。もちろん、生活のすべてを御支配くださっています。私たちの時間、存在、健康のすべてが御手の中にあります。働くことも、寝ることも同様です。衣・食・住等、生きるために必要なすべてのことを神さまが導いてくださっています。人は肉体の命を支えなれば生きて行くことが出来ない存在です。その肉体の命を支えてくださっているのが神さまです。昨晩私たちがぐっすりと眠ることができたのは、神さまが守ってくださったからです。今朝、おいしく朝食をいただけたのも神さまの備えによるのです。ですから、私たちは、信仰を生活と分けて考えません。私たちの生活も御手の中にあるころを信じます。ですから、私たちは次のように祈ります。
「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。神さまが生活のすべてを御支配くださっていることを信じて、ただあなたのみに求めます。」
私たちは、生活のすべても神さまの御手にあると信じているでしょうか。頭では理解していても分かっていても実際には、信仰と生活を切り離してしまうことがあります。しかし、自らの生活を神さまに御委ねし、神さまの祝福を受ける者は幸いです。

2 神さまのために生活するすること

二つ目は、神さまのために生活するすることです。(ローマ14:6,8)食事をつくること、掃除をすること、洗濯をすることなど日常生活のすべては、神さまのためです。食事を作る人は、料理を通して、食べる人への愛を表します。食卓は愛の交わりの場となります。食事をしながら、互いに受けた恵みや悩みを語り合いいたわり合い、祈り合います。職場で人に親切にすること、時間を守ること、感謝を言葉にすることも主のために生きる実践です。その人の生活は「聖」なるものになります。
イエスさまの十字架は、すべての生活の中で道を踏み外す私たちのためでした。私たちは、神さまのために生活していると思いながらいつの間にか自分のために生きています。(箴言3:6)。しかし、イエスさまは、日々踏み外す私を赦すために死んでくださいました。ですから、私たちは生活の中で示される罪を十字架に付けていきます。生活のイエスさまの赦しと導きを受けていきます。そのすべては主のためです。ですから私たちは次のように祈ります。
「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。私たちは、あなたが与えてくださった糧によって、主のために生きます。」

3 主に感謝しながら生活すること

三つ目は、神さまに感謝しながら生活することです。私たちは、これまでも日ごとの糧をいただいてきました。神さまの恵みと祝福に支えられてきました。その神さまの恵みに感謝します。そして、今日もなお、神さまが与えてくださること信じて祈ります。ですから、この祈りは神の愛に感謝し続ける祈りなのです。
私たちは、神さまが与えてくださった自由を感謝し、心から楽しみます。創造主である神様が、私たちの私たちが人生を楽しむことを望んでおられるからです。スポーツや趣味を楽しみます。神さまが与えてくださった時間に、温泉に入ってくつろぐことも、テレビや映画を見て楽しむこともできます。もし、私たちの中に日々の生活の中に感謝が失われているのなら、「日ごとの糧」への信頼を失っているのかも知れません。主のために生きることを忘れてしまっているのかも知れません。生活と信仰が別のものになっているのです。もし、そのことに気付かされたのなら神さまに立ち返り、「日ごとの糧」を受けとり直したいと思います。ですから私たちは次のように祈ります。
「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。今日もまたあなたへの感謝にあふれる一日としてください。」
私たちは、主の祈りを日々祈り続けていきましょう。単なる言葉としてではなく、生活のすべてを神に委ね、主のために生き、感謝に満ちた日々を送るために。

(2025年6月8日 石原 俊一 師)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です