主の祈り②御名が聖なるものに(マタイの福音書6章9節b)
1 はじめに~「御名を聖める」という祈り~
私たちは毎週、「御名を崇めさせたまえ」と唱和します。。新改訳2017では「御名が聖なるものとされますように」と原語に忠実に訳されました。この訳のとおり、神さまは他のいかなる方とも異なり聖なる方です。しかし、人々はどのような方か分からず、神さまを汚しています。ですから、この祈りには、「私たちが神さまを神さまとすることができるように」という願いが込められています。この祈りには、以下の3つの意味があります。
2 「聖」なる神さまを汚す自分と向き合う祈り
この祈りは、①「『聖』なる神さまを汚してきた自分と向き合う祈り」です。それは、人が神さまを汚し続けているからです。神の民、イスラエルの罪は深刻です。神さまはイスラエルの民は、神さま以外のものに頼り、神さまの名を汚しつづけました。そのため、イスラエルは他国に滅ぼされてしまいます。民は自らの汚れをどうすることもできません。神さまは、神さま御自身が「聖」であることを示しました(エゼキエル36:3)
イザヤは神の「聖」にふれました。すると、イザヤは叫びます。「ああ、私はほろんでしまう」と。「聖」にふれることで自分の汚れがあまりにもリアルに迫ってきたからです。 イザヤは神さまの臨在によって、自らが汚れた存在であることを知った(イザヤ書6:1~5)
私たちは、主の祈りを祈るとき、「聖」を汚している自分を知らされます。そして、御名を聖なるものにしてくださる神さまに、真剣に祈らざるを得なくなります。
3 私たちが「神の聖」をいただくことを願う祈り
この祈りは、②「私たちが『聖』となることを願う祈り」です。まず、神さまは私たちを聖とみてくださいます。私たちが罪や汚れをもったままでは「聖」なる神さまの御支配の中に入ることができません。そこで、「聖い方」、イエスさまが十字架にかかってくださいました。イエスさまは私の罪やけがれをすべて引き受けてくださいました。そのため、イエスさまを信じる私たちのことを神さまは「聖」と見てくださいます。神さまは十字架によって、私たちを「聖」なる神さまの御支配の中に入れてくださるのです。
次に、神さまは私たちを聖なる者にしてくださいます。私たちの内にはまだ、肉の思い、汚れが残っています。聖霊は私たちの肉の思い汚れを露わにします。その方法は様々です。ときには、。夫婦関係や職場での人間関係の摩擦を通して、自分こそが原因であることを認めさせられることがあります。また、自分の弱さの故に大きな失敗をしてしまったということがあります。あるときは良心の呵責を感じるときがあります。心に責めを感じるのです。また、あるときは聖書の言葉が心に突き刺さることがあります。神さま御自身が迫ってくださるときもあります。
しかし、イエスさま十字架によって肉を思いを殺し、私を「聖」きめてくだいます。ですから、「私は本当に罪人でした。」と告白した後に、「感謝です。」という言葉がでてきます。(Ⅰヨハネ1:9)「聖」なるイエスさまの御支配の中に入れられたからです。それは、愛と喜びと平安の世界です。
4 「神の子ども」としての祈り
この祈りは。③「神の子どもとしての祈り」です。私たちは、神さまの子どもとして、神さまの身内として、この祈りを祈ることができます。それは、私たちのお父様の名誉を挽回する祈りです。「お父様の名前が汚されていることを悲しみ、お父様の名が本来のお父様のとおり「聖」なるものになることを願う祈りです。この世界が「聖」なるものに変えられることを願う祈りです。それは、神さまの側に立ち、神さまと心を一つにする祈りです。
5 おわりに
私たちには、神さまの「聖」を理解することも、「御名を聖なるものとする」力もありません。ですから、御名が聖なるものとされますように」と祈るたびに、十字架に向かうしかありません。この祈りは、「絶えず十字架のもとにこの身を置かせてください」という祈りと同じなのです。神さまは、十字架の道を歩む私たちを「聖」と見てくださいます。私たちを通して神さまの「聖」が現されます。そして、私たちをとおしてこの世界に「御名を聖なるもの」とする世界が広がっていきます。
私たちは日々自分の罪を認め、一瞬一瞬にこの祈りを祈りたいと願います。「御名が聖なるものとされますように」 と。
(2025年5月18日 石原 俊一 師)