神のわざが現れるため(ヨハネの福音書9章1~12節)
1 はじめに
この箇所は、生まれたときから目の見えない人がイエス様によって癒されるというヨハネの福音書においては数少ない奇跡の物語であり、私たちに「見えること」と「信じること」の本質について深く考えさせます。
2 生まれつきの盲人
弟子たちは、「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。(2)」とイエス様に問いました。当時の人々は、病気や障害は罪の結果であると考える傾向がありました(出エジプト20:5,6)。それは、日本でも同じです。因果応報という考え方です。弟子たちの質問は、そのような考え方を反映しています。
3 驚くべき主の答え
これに対して、イエス様は、「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。(3)」と驚くべき答えをなさいました。この聖書の箇所を読みます時、ニック・ブイチチ(Nick Vujicic)という人物を思い出します。「先天性四肢欠損症」という障害を持って生まれたニックは、10歳のとき、人生に絶望し死のうとしましたが、この聖書の箇所を読み、「僕に手足がないのは、きっと、神様の特別なご計画があるからだ。」と信じ、人生が変わりました。手足がないことは、確かに苦労が多く、人一倍の努力を要します。しかし、手も足もないニックだからこそできる神のわざがあったのです。彼は伝道者となり、世界中で講演し、七人の大統領と面談し、五つの国会において講演しました。世界中の何億もの人々に福音を届けているのです。
4 泥を塗られて
イエス様は、この生まれつき目の見えない人の目に、唾で泥を作ってそれを塗り、「行って、シロアムの池で洗いなさい。(7)」と言われました。愚かになってイエス様を信じなければ、この命令には従えません。カナの婚礼の席でのしもべたちも、アラムの将軍ナアマンも、プライドを捨て、愚かになって信じ従って初めて、神様の大きな祝福を経験しました。あなたの理性が、そんな馬鹿なことで…と思うイエス様のことばを信じて、一歩踏み出す時、あなたの人生にも光が射し込むのです。
5 夜が来る
弟子たちにとっては、イエス様が十字架にかかって死なれるという暗黒のときが来るというイエス様の警告でしょう。私たちにとっては、イエス様を信じることのできるチャンスは限られているということです。ですから、今、イエス様を遣わされた方のわざを行わなければなりません。①今、イエス様を信じましょう。②今、私たちは、世の光として、イエス様から与えられた光を輝かせましょう。③今、信じて何もしないのではなく、神のわざが私を通して現れるように、イエス様を遣わされた方のわざを行いましょう。
(2025年5月11日 木田 惠嗣 師)