主の祈り④「みこころを行う」(マタイの福音書6章10節b)
1 「みこころが天で行われるように」とは
「みこころ」が「天でおこなわれるように」とあります。「みこころ」の原語は「セレーマ スー」(θέλημά σου)「あなたの意志」、すなわち「神さまのお心」です。天はキリストの再臨によって将来に実現される神の国です。神さまが民を支配するだけではありません。神の民が自らみこころを行う世界です。神さまの愛の中で主体的・能動的に生きます。イエスさまは、未来の神の民の姿を先取りして語っています。
2 「地でもみこころを行う」とは①?-神に喜ばれる歩み-
「地でもみこころを行う」とは、みこころを計画を予想することではありません。与えられた状況の中で、神様が望んでおられる生き方を誠実に歩むことです。
教会堂の建築が課題となると「どこに教会を建てることが『みこころ』か」ということが話題の中心になりがちです。しかし、それは、ほんの一部です。「みこころを行う」とは、教会員一人ひとりが一致で祈ることです。率直に教会に対する想いを語り合い、どんな教会を建てたいかを話し合うことです。建築に伴うこの世の制度をしっかりと学ぶことです。誠意をもって対応してくださる不動産屋を見つけ、誠実にかかわることです。示された場所に問題がないかを十分に確かめることです。そして、そのすべての中で神さまが働いてくださることを信じて歩み出すことです。神さまは、その歩みの中に神さまのご計画を成してくださいます。福島聖書教会は上記の歩みによって今の会堂が与えられたことを感謝しています。
3 「みこころを行う」とは②-十字架-
イエスさまは、十字架にかかる前夜、ゲッセマネの園で父なる神に祈りました。「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」(ルカ22:42) 杯とは、すべての人の罪の罰をすべての人に代わって十字架で死ぬことです。その苦しみが想像できないほど、大きなものだったでしょう。イエス様は苦しみもだえて、いよいよせつに祈られました。汗が血のしずくのように落ちました。この杯をわたしから取り去ってください。とまで祈りました。しかし、イエスさまは「みこころがなりますように」と祈られます。そして、十字架の罰を受ける道に歩まれます。ここでいう「みこころを行う」とは、イエスさまが愛する父なる神さまのみこころに歩んだことです。滅び行く私たちを愛し、その罪の罰を私たちに代わって受け、死んでくださったことです。私たちが救われたのは、この地でみこころを行ったイエスさまのおかげです。
私たちが「みこころを行う」というのは、兄弟を愛し、兄弟のためにいのちを捨てることです。(Ⅰヨハネ3:16)それは、兄弟の思いを尊重して、自分の思いを捨てることです。教会だけではありません。職場で自分の意見を主張するよりも相手の意見を尊重することです。家庭で自分の好みを譲ることです。そのようにして、神さまを愛し、人を愛することこそ「みこころを行う」ことなのです。わたしたちは、どうしても、自分の思いを先立てます。しかし、イエスさまは、十字架によってすでに「みこころを成し」てくださいました。私たちを神の子としてくださいました。聖霊が私たちを助けてくださいます。
4 この地にみこころが行われるための祈り
クリスチャンは、地のすべての人が「みこころを行う」ように祈り求めます。職場に、たった独りクリスチャンがいるだけでその職場は変わります。家庭にたった独りクリスチャンがいるだけで家庭が変わります。あなたは、家庭や職場で大切な存在なのです。この祈りは、その場に応じて、具体的に祈ることができます。
「神さま、今日一日がはじまります。今日も私をとおしてみこころが行われますように」
「争いの絶えないこの家庭にみこころがあらわれますように」
「この会議(話合い)が、みこころに沿って進められますように」
「この困難な状況の中で、みこころが現れますように」
神さまは祈りに応えてその職場、家庭を祝福してくださいます。互いに人を愛し、敬意をもってかかわりあう場所に変わっていきます。あなたの場所が神さまの祝福に満たされます。
(2025年6月1日 石原 俊一 師)