ただ神さまに栄光を(マタイの福音書6章1~5節)
1 人に見せること=自分の栄光をあらわすこと
イエスさまは、「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。」(1節)と語られます。人前でよい行いをすることは悪いことではありません。ここで、イエスさまが問題にしておられるのは、「人に見せるために」ということです。人に見せるために善行をするのは、自分の栄光を現すためにです。人から「自分がこんなに良いことをしている」と認めてもらうためです。「いいね」が欲しいのです。すると、「人々があなたがたの良い行いを見て、『天におられるあなたがたの父をあがめるようになるため 』 」(マタイ5:16)が、『あなたをあがめるようになるため』に変わってしまいます。
2 右の手のしていることを左の手に知らせるな
イエスさまは、「施し」をすることを止めろとはいっていません。イエスさまが問題としているのは、施しをするとき、自分の前でラッパを吹くようなことをして、人々の注目を集め、自分が施しをしていることを多くの人々に知らせることです。現代の私たちも同じです。伝道はいいことです。しかし、伝道することで、「私は○○人救いに導いた」とラッパを吹いたとしたら間違いです。仕事をするとき偽善者になることもあります。地震などが起きたとき、被災地に駆けつけ災害ボランティアをしながら偽善者になることもあります。繰り返しますが、伝道、奉仕、仕事、災害ボランティアはすばらしいことです。問題は、そのことを、自分を褒めたたえるために用いるという偽善です。
3 右の手がやっていることを左の手に知らせるな
イエスさまは、「右手がやっていることを左手が意識しないぐらいに、自分のやっていることの『すばらしさ」や『価値』をあなた自身が意識しないように勧めました。たとえ神に喜ばれることをしても、自分のやったことのすばらしさ、価値については無自覚でいなさい。主にある働きを行った自分を意識せず、ただ、神さまを崇めなさい、神さまに栄光を帰しなさいと勧めておられるのです。
「靴屋のマルティン」というトルストイが書いた名作があります。靴屋をしていたマルティンは、ある夜、イエスさまから「明日、私はあなたのところに行くよ」というメッセージを受けます。その日イエスさまはおいでになりませんでした。しかし、イエスさまは、マルティンがそのにお世話した門番、若い女とその子、少年を見せ、「あれはわたしだったのだ」と告げる…というお話しです。マルチィンは。イエスさまのころを思い、イエスさまを待ち望んでいたら、いつの間にか3組の世話をしていました。マルティンは自分の善行を善行だろ全く自覚していません。マルティンの姿こそ、「右の手のしていることを全く左の手に知らせない」姿です。
しかし、私たちは直ぐ自分の行いに対する評価を気にしてしまいます。そのようなとき、私たちは、自分が右の手がしていることを左の手に知らせる存在であることを認め、日々イエスさまの十字架のもとへいきます。自分の栄誉を求める私に気付くということも聖霊の働き、神さまの働きです。そして、聖霊は、イエスさまの十字架はこの私のためであったことを示してくださいます。そのように歩む中で、神さまは、わたしたちをマルチィンのように変えてくださいます。キリストがすべてになります。神さまを思い、神さまを誇り、神さまに栄光を帰する者に変えられます。聖霊は、自分の罪を自覚させ、自分の義を無自覚にするお方です。そのことを覚えたいと思います。
4 信仰にあって歩む者にあたえられる報い
イエスさまは、「そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」と語ってくださいます。神さまは私たちに報いとして神さまの祝福をあたえてくださいます。神さまは、私たちとともにいてくださいます。私たちと交わってくださいます。そして、赦しといのちと義を与えてくださいます。このようなこの世で与えてくださる神さまの報い、祝福はいかに大きいことでしょう。それだけではありません。神さまがもう一つ報いを与えてくださいます。それは、やがて来る神の国に入れていただくという祝福です。そこは、愛と平安喜びの世界です。大きな報いです。
私たちの善い行いが人の目を引くためではなく、神さまの栄光を現すものとなるように、誰にも気づかれなくても、ただ主の前で忠実に歩み続けましょう。
(2025年4月20日 石原俊一 師)