わたしは世の光(ヨハネの福音書8章12~20節)
1 わたしは世の光
ヨハネの福音書には、「わたしは・・・です。」と7つ出て来ます。今日の箇所は、その2番目で、ユダヤ人が9月から10月にかけて行う仮庵の祭りの時の出来事です。仮庵の祭りは、①秋の収穫感謝祭②荒野のテント生活を記念し、神の恵みに感謝する祭り③万軍の主が全世界の王となる日を待ち望む祭り④水の祭り⑤光の祭り(イスラエルを導いた火の柱を記念)です。イエス様は、婦人の庭にある献金箱の近くで語られました。その婦人の庭には、20メートル以上ある4つの巨大な燭台があります。神殿を照らすだけでなく、エルサレムの町々を照らしていたと言われています。これは、イスラエルの民がモーセに率いられて荒野を旅したときに行く手を照らして民を導いた「火の柱」を思い起こさせます。そこで、イエス様は、「わたしは世の光です。わたしに従うものは、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」と語られました。
2 闇と光
旧訳聖書で光は、神ご自身をさす言葉でもあります。(詩篇27:1)また、メシヤは光とも言われています。(イザヤ49:6)イエス様が世を照らす光でしたら、当然闇があるのです。イエス様の周りは闇で、私達の周りも闇です。イザヤが「見よ。闇が地を覆っている。暗黒が諸国の民を。」と語っているように、闇に覆われているのが世の現実です。また、私達の内にも深い闇があります。
3 私達を導く光
出エジプトの旅において、火の柱がイスラエルの民を約束の地に導いたように、光なるイエス様は、私達を約束の地、神の国へと導いてくださいます。目に見えるこの世の富や栄誉を求めて生きるのではなく、神の国を目指す民として、与えられた救いを感謝し、周りの人を愛して生きていきたいものです。日々、イスラエルの民を導かれた主は、私達の生かされているところで、日々、具体的な生活も導いてくださいます。
4 希望の光
まことの光なるイエス様は、私達がどこから来てどこに行くかを知っておられますので、この方に導かれるものは、どこから来てどこへ行くのかを知るものとなります。(ヨハネ8:14)当時のユダヤ人は、この地上の生涯が終わればそれで終わりだと思っていました。しかし、イエス・キリストは、確かに死んでよみがえられ、復活の希望を与えて下さいました。自分たちは死者の国へ行くのではなく、イエス・キリストの復活のいのちを頂き、永遠のいのちに生き、神の国に生きるという、決して失われることのない希望が与えられています。
5 光の中を歩む
「わたしに従うものは、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」
従うという言葉は、言い換えれば信じるということです。「まさかという坂」が人生にはやってきますが、変わらずに愛して支えてくださるイエス様を信じ、共に生きていくなら、決して闇の中を歩まず光の中を歩むことが出来ます。光なるイエス様は、今も後も変わることなく、いのちを与え、導きを与え、希望を与えてくださいます。生かされているところで、「イエス様はわたしの光」と告白して従っていきましょう。
(2025年3月9日 木田 和代 師)