律法の真意2「姦淫してはならない」(マタイの福音書5章27~32節)
1 結婚の祝福
姦淫の問題を知るためには、結婚とは何かを理解する必要があります。結婚は神さまが与えてくださった祝福です。結婚のキーワードは「一体となる」ということです。(創世記2:24)2人の異なった人格が一つとなることです。2人が同じ方向に向かい、助け合い支え合って生きて行くことです。「神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません」(マルコ10:9)
結婚に導かれる者も一生独身のまま歩む者も、「一体となる」という恵みがあります。それは、「キリストとの一体」です。イエス様を信じる私たちは、みな「キリストの花嫁」になります。私たちの罪がキリストのものになります。そして、キリストのいのちが私のいのちになります。これもまた、神さまが結び合わせてくださった恵みです。
2 旧約聖書の律法が示す姦淫
しかし、この幸いを破壊するのが姦淫です。律法が示す姦淫は、「夫婦関係以外での性的接触」を表します。姦淫は、一体となっていたはずの2人をひき裂きます。姦淫は、相手の配偶者への裏切りです。しかも、姦淫は、神さまへの反逆です。当然、姦淫は神さまの祝福を失います。姦淫は大きな罪です。そのため、旧約聖書は十戒の第7戒で禁じ、姦淫をした者は死刑であると定めています。旧約聖書では、神は、イスラエルの民が他の神々に礼拝することを姦淫として糾弾します。これは、キリストとの一体となった者の裏切りですが、この箇所の姦淫は、夫婦関係を破壊する姦淫について語っています。
3 律法の真意
イエスさまは、「性的接触を実際に行わなくても、自分の欲をもって異性を見る者は、すでに姦淫を犯している」語ります。それは、配偶者への裏切りであり、神さまへの裏切りだというのです。確かに、私たちの中には、目の欲が渦巻いています。私たちの中に「私は姦淫を犯していない」といえる人が果たしているのでしょうか。イエスさまは、「あなたの存在が姦淫を犯す罪人です」と語っているように思います。5:29-30も、あなたは、律法には無力であることを示しています。
しかし、私達が、自分の罪を認めることこそ、イエスさまの御心です。パウロは、イエスさまの真意をよく理解し、「なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。」(ローマ3:20)と語っています。律法の真意を知った私たちに生じるのは罪の意識なのです。
さらに、イエスさまは、当時行われていた「離縁状1枚による離婚」を否定しました。イエスさまは、「安易に離婚してはいけない」というメッセージを語っているのです。これらのことから、十戒の第7戒「姦淫してはならない」に込められた真意は、「真実に結婚の祝福を受けなさい」ということであることがわかります。
4 姦淫の女をお許しになるイエスさま
では、神さまの前に罪を認める私たちは、絶望しかないのでしょうか。私達は、ヨハネの福音書8章1節~11節を思い出します。
イエスさまの前に、姦淫の罪を犯した女が連れてこられます。しかし、この女にイエスさまが言います。「わたしもあなたにさばきをくだささない」(11)イエスさまは神の子です。イエスさまだけが人を裁くことのできるお方です。しかし、イエスさまは、姦淫の女を裁きません。それだけではありません。イエスさまは、後に十字架にかかってくださいます。裁かれるべき罪人の代わりに罰を受け、赦しを与えてくださいます。ここに私達の救いがあります。私たちは、「罪人のわたしをあわれんでください(ルカ18:13)と取税人の祈りしか出来ない者なのです。しかし、イエスは、そのように祈る者に神の義を与えてくださいます。結婚の祝福を与えてくださいます。
5 私たちはみな赦された罪人
さて、ヨハネの福音書8章の中でイエスさまは、「あなたがたの中で罪のない者がまず、この人に石をなげなさい」(ヨハネ8:7)と語られます。イエスさまのこの言葉を受けて、驚くべきことが起こります。あれだけ、姦淫の女を責めていた人々が一人、また一人去り、だれもいなくなってしまったのです。すべての人がイエスさまの十字架の赦しを受けなければならない存在です。そうであれば、だれが姦淫の女に石を投げることができるのでしょうか。「友よ、私もあなたと同じ罪人です。一緒にイエス様のあわれみを受けましょう」としかいえません。私たちは、みな赦された罪人なのです。
(2025年3月23日 石原 俊一 師)
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