律法の真意①「殺してはならない」(マタイの福音書5章21~22節)

イエスさまは、「殺してはいけない」という十戒の第6戒の律法の真意を3段階に分けて伝えます。

1 兄弟に対して怒る者

1段階目が、「兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。」です。
このイエスさまの言葉に、戸惑わない人はいないと思います。この世に怒らない人はいないでしょう。今年度、東京基督教大学の同級生のKさんは、修士論文研究おいて、信徒に「怒り」という感情の大切さを教える心理教育を行いました。そして、「怒りは自分に危険を及ぼす者から自分を守るために神さまが与えてくださった大切な感情です」と教えました。人間には、健全な「怒り」があるということです。
では、イエスさまの言葉をどのように受け止めればよいのでしょうか。原語をみると、「兄弟に対して怒り続ける者は」と読むことができます。誰にでも、一時的に自分を守るために怒るときはあります。しかし、怒り続けてはいけないというのです。私は、これがイエスさまの伝えたかったことだと思います。「怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。」(エペソ人4:26)という御言葉があります。怒りの期限が日が暮れるまで、というのです。この御言葉は、「怒り」が罪につながりやすい感情であることを指摘しています。 イエスさまは、神さまの御心にかなわない罪の「怒り」について指摘しているのです。それは、兄弟のすべてを否定し、相手を愛しておられる神の御心を否定していくことです。実際に兄弟の命を奪わなくても、その心は、兄弟のすべてを否定し、兄弟を愛してあられる神の御心を否定する者です。そのような「怒り」は、「殺す」ことと同じです。「怒り続ける」者は、「殺人」と同じ扱いを受けます。すなわち、裁かれるということです。

2 兄弟を「ばか者」という者

第2段階は、「兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれるということです。「ばか者」というのは、原語では、「空っぽの、軽薄な」という意味があります。相手の知性や能力を見くだし、価値のない存在とすることです。神さまは一人ひとりを愛し、その人にその人にしかできない力を与えてくださっています。神さまのものさしは無限にたくさんあります。一人ひとりに神さまの物差しで優れた力を与えておられるのです。それなのに、兄弟に対して、「ばか者」「能力の無い物」とするのは、その人に対する侮辱だけではありません。神さまに対する冒瀆です。ですから最高法院で裁かれるのです。

3 兄弟を 「愚か者」という者

第3段階は、兄弟に対して「『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。」ということです。「愚か者」とは、その人が人間として欠陥のある者のことをいいます。その人の人格や性格を軽蔑する言葉です。神さまがその人を立たせると語っておられる(ローマ14:4)にもかかわらず兄弟の人格や人間性を否定するのは神に対する罪です。そして、その裁きの大きさは私たちの想像を超えています。「火の燃えるゲヘナに投げ込まれる」というのですから。

4 「殺してはいけない」という律法に破れ果てる私たち

私たちは、「怒り」によってどれだけたくさんの人を殺してきたのでしょうか。私たちは、神の義を全く持っていない存在です。それどころか、神に裁かれ、ゲヘナに投げ込まれるような存在です。私たちは「殺してはいけない」という律法に破れ果てる者なのです。

しかし、取税人(ルカ18:10~13)のように自分の罪をただ認め、神さまに、「あわれんでください」と祈る者、イエスさまの十字架の前に出て行く者は義をいただくことが出来ます。イエスさまの十字架は、私たちの罪の一切を負ってくださるためでした。イエスさまの義を私たちに与えてくださるためのものでした。
私たちは、神さまによって、神の国に生きる者に変えられます。私たちの努力ではありません。やがて来る神の国において、私たちは、すべてイエスさまの十字架によって「殺してはいけない」という律法を守る者に変えられる時がきます。この地上でも、完全には行きませんが、神さまが私たちを「殺さない」ものに変えてくださいます。少しずつですが、互いに愛し合い、平安と喜びをもって歩むものに変えられます。

ですから、私たちは、「この罪人をあわれんでください。」と神さまに祈り、自分の中に起こる「怒り」を神さまの手にお渡ししていきたいと思います。

(2025年3月2日 石原 俊一 師)

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