主の祈り⑥「負い目をお赦しください」(マタイの福音書6章12節)

0 はじめに

イエスさまは、「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、自分に負い目のある人を赦しました」という祈りを教えてくださいました。罪の赦しを祈るよう教えられたことには、私たちの神さまとの関係や人間関係にとって大切な意味があります。

1 私たちの罪を赦してください

イエスさまは、神に「負い目を赦してください」と祈るよう教えられました。ここで「負い目」と訳されている言葉はὀφείλημαという語で、もともと「借り」や「負債」という意味があります。神に対して私たちが果たすべき責任や従順を果たさなかったことで、神の前に「借り」がある状態です。新共同訳では「罪」と訳されています。ルカの並行箇所が「罪」(ἁμαρτία)を使っていること、当時「負債」という言葉が「罪」を意味する比喩として使われていたことから「負い目」は「罪」と同じ意味で用いられていることが分かります。
私たちには、神に対して負い目があり、それを赦していただく必要があります。この祈りを教えられたということは、神が私たちの罪を赦そうとしておられるということです。実際、神は御子イエスを十字架にかけることによって、私たちの罪を赦してくださったのです。

2 私たちも赦しました

イエスさまはこの祈りの中で、神に罪の赦しを願うと同時に、自分に対して負い目のある人、つまり自分に罪を犯した人を「私たちも赦しました」と祈るように教えられました。ここには、神からの赦しと、他者への赦しの密接なつながりがあります。この祈りの後、イエスさまは6:14–15で「あなたがたが人の罪を赦すなら、天の父もあなたがたを赦してくださいます」と説明されます。これは、私たちの行いが救いの条件だと言っているのではありません。真実に神の赦しを経験した者は、他者を赦す者へと変えられていくということです。赦しは単なる感情ではなく、福音に対する応答です。

3 赦すことの困難さと恵み

けれども現実には、赦すことができないという思いに苦しむ人がいます。赦そうとしてもできない、心がついてこない、傷が癒えない。そのような中で、この祈りは重く響きます。イエスさまはマタイ18:23–35で、赦さないしもべのたとえを語られました。6000億円の借金を帳消しにされたしもべが、たった100万円の借金を赦さなかったという話です。神が私たちを赦してくださったというのは、そういうことなのです。私たちが人から受ける傷は小さくありませんが、イエスさまは、「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、自分に負い目のある人を赦しました」という祈りを教えてくださいました。罪の赦しを祈るよう教えられたことには、私たちの神さまとの関係や人間関係にとって大切な意味があります。

4 主の祈りを生きる

赦すことができないとき、自分のうちに赦しがないことに気づくとき、私たちは自分の罪深さと向き合うことになります。ローマ7章でパウロは「私のうちには善がない」「私は自分のしたい善を行わず、したくない悪を行っている」と語りました。私たちもまた、赦したいと願いながら赦せず、もがきます。けれども、主イエスはその罪をも赦してくださるお方です。そして、赦せない私たちを、そのまま受け入れ、十字架の恵みによって赦す力を与えてくださるのです。主の祈りは、罪を完全に赦された者の祈りであると同時に、赦せない現実に苦しむ者の祈りでもあります。だからこそ、この祈りをやめてはなりません。「赦してください」と祈るたびに、神の赦しの大きさと、自分に与えられた恵みに目を向けるよう導かれるからです。そして、神の恵みに立ち返るたびに、赦しの力が少しずつ私たちのうちに働いていきます。

5 おわりに

赦しは容易なことではありません。しかし、赦された者として、私たちは赦しを祈り、赦す力を主に求めることができます。赦せない自分をも、十字架のもとに差し出しながら、この祈りを今日も祈り続けましょう。

(2025年6月15日 石原 俊一 師)

 

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