人の過ちを赦すこと(マタイの福音書6章14~15節)

1 人の「過ち」を赦すことと私の赦し

6:14–15では罪について「過ち」と表現しています。原語では「παράπτωμα(パラプトーマ)」「誤って踏み外す」「つまずき」という意味があり、明確な悪意ではなく、比較的軽い過ちや失敗のことを指しています。
「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。」(14節) ここであなたが赦すのは、人の「小さな過ち」です。しかし、神が赦してくださるのは、あなた自身の「大きな罪」です。この対比は、神の赦しの深さと広さを明らかにしています。
しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。(15節)小さな過ちを大きな罪の問題として赦さないあなたは、小さな過ちを赦す恵みからも遠ざかってしまいます。神から赦される恵みを自ら拒否する人間の弱さが語られています。

2 赦しとは、神の御支配にとどまること

Aさん、Bさん、Cさんの三人が神の国に生きているとします。Aさん、Bさん、Cさんは皆、神の愛の支配の中にいます。それは、神に赦され、愛と平安に満たされた状態です。ある時、CさんがAさんに「小さな過ち」を犯しました。

AさんはCさんの過ちを「取るに足らないこと」として流せず、「重大な罪」として心に抱え込んでしまいます。Cさんを赦せない怒りや不満が心を満たし、Aさんは自ら神の愛と赦しの世界から離脱してしまったのです。神の国とは、神の愛と赦しが及ぶ領域です。神がAさんを赦されないのではなく、Aさん自身が神の赦しを受け取ることができない状態に陥ってしまうのです。

一方、BさんもCさんから同じような「過ち」を受けました。しかし、Bさんは、「自分も同じように赦された罪人だ」と心に刻みます。神の愛にとどまり、Cさんの過ちを赦します。このBさんは、神の国にとどまり続け、神の赦しを受け取り続けることができる人です。

 

3  大きな父の愛を信じて

Bさんのように人を赦し、神さまの愛の御支配の内に留まることの出来る人は幸いです。しかし、どうしても人を赦すことの出来ないときはどうすればよいのでしょうか。
ルカの福音書15章には、放蕩息子の話が描かれています。放蕩息子の弟が父のもとに帰ってきたとき父は大喜びでした。しかし、兄の心は弟を裁く気持と、弟の帰還を喜ぶ父への不満でいっぱいになりました。そのとき、兄は、自分の思いのすべてを父にぶつけます。しかし、父なる神さまは、裁き心で満ちている兄息子に「子よ」と呼びます。「子よ」よいう呼びかけは、愛情いっぱいの言葉です。そして、「おまえはいつも私と一緒にいる。」と声をかけてくださいました。
放蕩息子の兄は私たちの模範です。父なる神さまに本気でぶつかります。自分が傷つけられた悔しさ、悲しさ、憎しみ、恨み…そのすべてを神さまに祈ります。神さまとの人格的な交流、ぶつかり合いをするのです。
神さまに自分の思いを本気でぶつけることは、神さまへの信頼です。神さまに本気でぶつかれば、必ず導きをあたえてくださいます。私たちは、12節を日々祈り続けましょう。すると、Bさんのように神さまの愛の御支配に戻されるときがきます。それは、どうしても赦すことのできなかったあなたが、人の過ちを赦す存在へと変えられる時、神さまの愛の大きさを大変するときです。

 (2025年7月6日 石原 俊一 師)

 

 

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