主の祈り⑦「悪からお救いください」(マタイの福音書6章13節)

1 「試み」に敗北する私たち

「試み」の原語は、πειρασμός(ペイラスモス)といい、「試す」「試験」「テスト」と訳すことが出来ます。神さまが与えた試みは「試練」です。その目的は信仰の完成です。人は、試練によってますます神さまに拠り頼めるようになります。悪魔が与えた試みは「誘惑」です。その目的は、人を神さまから引き離すことです。新改訳2017のように「試み」と訳すと試練と誘惑という両方の意味を含ませることができます。
原語を直訳すると、「1度でも私たちに試みを持ち込まないでください。」となります。一度でも試みにあわないことを願います。この祈りは、「試み」に対する敗北宣言です。私たちは、とても弱い存在です。自分の力で試練にも誘惑に打ち勝つことはできません。自分の弱さを自覚したクリスチャンは、ひたすら神さまの守りを願います。本当に自分が「試み」に耐えられない弱い存在だと自覚していたら、神さまから離れることは決してありません。自分が試みに敗北する全く頼りのない存在だと自覚していたら、どんなことがあっても神さまにしがみつきます。神さまに頼るしかありません。私たちは神さまから離れると生きて行くことができない存在なのです。

2 悪からの救い

私たちは試みを望みません。しかし分かっています。サタンは容赦なく、私たちを誘惑してくることを。ですから、イエスさまは、「悪からお救いください。」と祈るように勧めます。悪は私たちを神さまから引き離します。神さまから私を引き離す、すべてのものが悪です。サタンは神さまとの交わりを妨げようとして様々な出来事・人・物を用います。一般に誉めることは良いことだと言われます。しかし、誉め言葉が人を高慢にし、神さまから引き離すとすれば悪になります。私たちの内にある、「自分が主となりたい」「自分の思い通りにしたい」「自分がこの世から認められたい」という思いも悪です。私たちは悪に勝つことのできない存在です。自分の力で悪に対抗できると思うときは、すでに悪魔に引き込まれています。悪魔は、「自分は対抗できる」という自信につけ込むのです。私は、悪に全く勝てません。悪に対して全くの無力であると認めることが悪に対抗する第一歩です。
しかし、私たちには悪に打ち勝ったお方がおられます。イエスさまです。イエスさまは、宣教を開始する前に荒野で悪魔を斥けられました。イエスさまの十字架で悪魔の頭を打ってくださいました。十字架の死は、悪魔に対する勝利でした。サタンに支配され、滅び行くはずであった私たちが救われました。ですから、私たちは、悪に対して自分で戦いません。イエスさまに戦っていただくのです。
一つ一つの出来事に対して悪魔はその手を伸ばします。誘惑によって、私たちを神さまから引き離そうとされます。しかし、私たちが主の祈りを祈って行くとき、神さまはそこに介入されます。そして、私たちが一層神さまに御委ねし、その人が神さまへの信頼が深まるように導かれます。そしてその人の信仰を完成へと導かれます。神さまは誘惑を試練に変えるお方なのです。

3 祈りに込める思い

「私たちを試みにあわせないで、 悪からお救いください。」(6:13) 私たちは、この祈りに次のような思いを込めます。

「私たちを試みにあわせないでください。私たちは試みに勝てません。無力なのです。しかし、私たちに迫り来る悪から救ってください。イエスさまが悪と戦ってください。私たちの救いはただあなたです。」

すると、私たちは、イエスさまにあって、試みに勝利することが出来ます。悪から勝利する事が出来ます。私たちは、この祈りを祈りながら、自分の無力を認め、ただ、イエスさまの十字架に寄りすがって歩んで生きましょう。イエスさまは、その人の生涯を導いてくださいます。信仰を全うさせてくださるのはイエスさまです。

(2025年6月22日 石原 俊一 師)

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