信仰者の選択②預言者か?偽預言者か?(マタイの福音書7章15~23節)

1 はじめに

山上の説教の学びもいよいよ終盤に入り、イエスがここで投げかけるのは「あなたは誰に従うのか」という問いです。今日の箇所は「預言者か偽預言者か」という選択を信仰者に迫ります。偽預言者というと怪しい人物を思い浮かべがちですが、実際には外見だけでは本物と見分けがつかず、むしろ好印象さえ与えることがあります。しかし彼らは信仰者を滅びへ導きます。

2 旧約聖書から見る預言者・偽預言者

旧約聖書において預言者とは「神に呼ばれ、神の言葉を民に伝える者」です。エレミヤ1章10節にあるように、彼らは罪を指摘し悔い改めへ導くと同時に回復の希望を告げる役割を担いました。一方、偽預言者は神に召されていない自称預言者であり、本人は正しいと思い込んでいても実際は民を惑わします。エゼキエル13章10節が示すように、危機的状況でも「平安だ」と言って表面を取り繕うのが特徴です。

3 山上の説教からみる預言者・偽預言者

山上の説教全体の文脈では、預言者は狭い門・細い道を勧め、神の御心に従い、神と人を愛し、罪を認めて神に立ち返るよう呼びかける人です。偽預言者は広い門・広い道を勧め、自分中心・自己依存の生き方を説き、神や人を愛することを勧めません。イエスは「彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、内側は貪欲な狼である」と警告しました。人は「そのままで大丈夫」と肯定してくれる言葉に魅力を感じがちですが、そこには滅びが潜んでいます。対してイエスこそ門であり道であり、砕かれた者にいのちと祝福を与えます。

4 預言者・偽預言者は実で見分ける

イエスは「彼らを実によって見分ける」と語られました。茨やあざみからはぶどうやいちじくは取れません。良い木は良い実を、悪い木は悪い実を結ぶのです。ガラテヤ5章22節の御霊の実(愛・喜び・平安など)が良い実であり、偶像礼拝や争いなどが悪い実です。その人の結ぶ実に注目することで見分けることができます。
真の預言者であった本教会元牧師栗原先生の証を紹介します。彼は自分の力に頼らず祈りに生き、御霊の実を結びました。彼は青年の弱さをはっきりと指摘してしまいました。「失敗したかな」そう思いました。しかし、反発を受けず青年に悔い改めが起こりましたそれは、先生自身の力でなく聖霊の働きでした。真の預言者とは、自分の弱さを認め、神に依り頼む中で聖霊の実が現れる人です。私たちも自分という悪い木からは悪い実しか結べませんが、神という良い木に接がれるとき御霊の実が結ばれます。

5 そこにイエスさまがおられるか

さらにイエスは「『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、父の御心を行う者が入る」と警告します。偽預言者も神の名で預言し、悪霊を追い出し、奇跡を行うことができますが、それは人間の力の延長に過ぎず、栄光を自分に帰す働きです。終わりの日にイエスは「わたしはおまえたちを全く知らない」と退けられます。私たち自身も道を踏み外し、偽預言者のように振る舞ってしまう危険があります。だからこそ、終わりの日が来る前に神に立ち返ることが大切です。
説教者自身も小学校教師時代に自分の頑張りが認められず失望した経験があります。「子どもたちのために、自分はあれをやったじゃないか、これをやったじゃないか」とつぶやいいていたとき、「主よ、主よ」御言葉を思い出し「自分は偽預言者と同じではないか」と気づきました。大切な事は、何をやったかではなく、「その歩みにイエスさまがおられるか」だったのです。そのことに気づき、神に一切を委ねる信仰に立ち返ったとき、神さまにある平安に戻ることができました。。私たちは偽預言者に惑わされるだけでなく、自ら偽預言者になってしまう弱さがあります。そのときこそ狭い門を通り、細い道を歩み、神に立ち返ることがいのちに至る歩みです。

6 おわりに

結びに、イエスは「偽預言者に惑わされず自分の信仰を保ち続けなさい」と語られました。自分の頑張りではなく神の働きを経験すること、自分の弱さや罪が砕かれる場所に身を置くことが大切です。そこに聖霊が働き、御霊の実が現れます。私たちも砕かれつつ神の力に生き、預言者の方向に歩む者となりましょう。

(2025年9月14日 石原俊一 師)

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