本当の愛 (マルコの福音書10章42~45節)
1 弟子たちの心、私たちの心 : 「そこで、」
42節の始めに、「そこで、」とあります。この言葉は、その前にあったことを受けています。何があったのでしょう。
41節を見ると、イエス様の12弟子うちの10人がヤコブとヨハネに腹を立てたことが書かれています。ヤコブとヨハネは兄弟です。二人だけでイエス様のもとに行き、「あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください」(37節)と願ったのです。他の弟子たちは二人が抜け駆けして、自分たちより先に良い場所を取ってしまおうとしたことに腹を立てたのです。
この直前、イエス様はご自分の十字架と復活を弟子たちに語られました(33,34節)。ところがヤコブとヨハネも、他の弟子たちも、この重大なことを受け止めることなく(できず)、イエス様の十字架よりも自分たちの栄光の座の方に心を奪われていたのです。
仲間に腹を立てること、イエス様の十字架より自分の栄光を求めること、これは弟子たちだけのことでしょうか。私たちの心にも起きることです。イエス様は、そんな弟子たちの心も私たちの心も知っておられます。「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた」(42節)。何という愛でしょう。イエス様は、そういう弟子を、私を、呼び寄せて、語ってくださいます。
2 世の生き方
イエス様が弟子たちを呼び寄せて、まず語られたのは世の生き方です。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています」(42節)。「異邦人の支配者」とは、直接は当時の世界を支配していたローマ帝国の支配者たちを指しますが、どの時代、どの国であっても同じです。支配者ばかりではありません。少しばかりの立場や力を手にしただけでも偉くなってしまうのが私たち人間ではないでしょうか。
3.世の生き方とは別の生き方への招き:「しかし」
「しかし、」とイエス様は言われます。「しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません」とはっきりと言われます。そして弟子たちを世の生き方とはまったく別の生き方へと招かれます。
「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい」(43,44節)。
イエス様は言葉だけのお方ではありません。ご自分がその道を歩まれました。「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人の贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです」(45節)。「仕えられるためでなく仕えるため」、「自分のいのちを与えるため」、これを「愛」というのでしょう。しかもイエス様は、「多くの人の贖いの代価」となられました。「多くの人」とは誰ですか。立派な人たちですか。パウロはローマ人への手紙5章で「まだ弱かったころ、…不敬虔な者のために、…罪人であったときに、…敵であった私たち…」と書いています。このような「多くの人」、そしてこの私の「贖いの代価として」ご自分のいのちを与えてくださいました。イエス様の愛は本当の愛です。
イエス様は「皆に仕える者になり」「皆のしもべになりなさい」と私たちを招かれます。私たちはそのようになれるでしょうか。なれません、、、。これが正直な答えではないでしょうか。「イエス様、私はそのような者になれません」と認めて、イエス様のもとにそのまま行くことしかできない私です。でも、そのようにイエス様のもとに行くならば、そこで十字架に出会います。イエス様はそんな私のためにも、ご自分のいのちという尊い代価を払って、私を神様のもとに迎え入れて下さるのです。
私たちは本当の愛に出会い続けていくことによってしか、本当の愛に生きることはできません。時間がかかります。出来ない自分に何度も直面します。それでもなお愛してくださるイエス様がおられます。私たちの心からの願いは、栄光の座の右と左ではなく、本当の愛に出会い続けていくことではないでしょうか。
(2025年8月31日 館脇 暁美 師)