信仰者の選択③岩地か?砂地か?(マタイの福音書7章24~29節)

1 はじめに

イエスさまは山上の説教を総括し、「あなたは家を岩の上に建てる賢い人か、砂の上に建てる愚かな人か」という問いを私たちに投げかけておられます。本日はこの問いに答えるための「選択」についてご一緒に考えたいと思います。

2 2つの選択肢

「わたしのこれらのことばを聞いて」とイエスさまは語られました。これは山上の説教全体を指し、その要約は「人を愛し、神を愛することで旧約を成就しなさい」ということです。しかし実生活でこれを行うのは容易ではありません。そこでイエスさまは、御言葉を聞いて行うか、行わないかという二つの選択肢を示されました。行う者はキリストという岩の上に家を建てた賢い人であり、行わない者は自分という砂の上に家を建てた愚かな人です。岩の上の家はどんな嵐にも倒れませんが、砂の上の家は嵐に耐えられず倒れてしまいます。人間は弱く罪深い者であり、自分を土台にしては人生の嵐にも、死にも耐えられません。永遠の滅びが待っています。

3 イエスさまの言葉を行うこと

では、イエスさまの御言葉を本当に行うことができるのでしょうか。そのことを理解するために、ペテロが水の上を歩いた出来事が助けになります。
ペテロはイエスさまの「来なさい」という言葉を信じ、その通りに歩み出しました。すると御言葉どおりペテロは水の上を歩くことができました。それはペテロの力ではなく、命じられたイエスさまの力でした。信仰とは自分の力ではなく、イエスさまがなしてくださることを受け取ることです。イエスさまは「できない」で終わらせるのではなく、御言葉どおりにやりなさいと招かれます。するとイエスさまご自身が働いてくださり、御言葉を行う者にしてくださいます。
もっとも、ペテロのように私たちもすぐにイエスさまから目を離し、この世や自分を見て沈みかけます。しかしイエスさまはすぐに手を伸ばし、支えてくださいます。イエスさまは、「信仰の薄い者」といわれますが、つかんだその手を決して離しません。「アーメン、自分は信仰の薄い者です」と弱さを認める私たちを愛し、支えてくださいます。ですから、ただイエスさまだけを見て、みことば通りに歩み出せば、成功しても失敗してもイエスさまが一切を導いてくださるのです。これこそが岩の上に家を建てることであり、山上の説教を生きる姿です。

4 キリスト者とこの世を生きる者の違い

キリスト者も気づかないうちに自分という砂地に家を建ててしまうことがあります。しかし、キリスト者はこの世の歩みの中で、嵐によって倒れる痛い経験をします。砂地はすべてふき飛ばされます。その中でキリスト者は自分の愚かさを認め、ふたたびキリストという岩地に戻って行きます。嵐に遭うことはつらいですが、岩地に戻されることは、キリスト者に対する恵です。
この世の人々は皆、自分という砂地に建てています。危機に気づき教会の門をたたく人は幸いです。しかし、多くは最後まで砂地に建て続けてしまいます。そして、死という嵐に耐えられず滅びてしまうのです。

5 イエスさまの権威

イエスさまは山上の説教を語り終えられ、群衆はその権威に圧倒されました。イエスさまは権威そのものです。やがて十字架にかかり、私たちの罪を負ってくださるお方です。私たちはその権威を本当に信じているでしょうか。自分を見れば当てになりませんが、内におられるイエスさまの権威に生きることが許されています。ですから、救い主の権威を信じて歩んでいきたいと願います。

6 おわりに

もし今、あなたの人生が砂の上に建てられて崩れかけているなら、それは神さまの恵みかもしれません。今こそイエスさまを人生の土台とする選択をし、御言葉を信じて行ってみましょう。そこにイエスさまの力が働き、あなたの人生が堅固な岩の上に建てられます。

(2025年9月21日 石原 俊一 師)

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