私たちのわずらいを担ってくださるイエスさま(マタイの福音書8章14~17節)

1 はじめに

マタイ8~9章には、イエスさまが愛とあわれみをもって人々を癒やし、神の国を広げていかれる姿が描かれています。律法を越えてツァラアトの患者に触れ、また異邦人の百人隊長の信仰に応えて僕を癒やされました。こうして、福音がユダヤ人から異邦人へと広がる神のご計画が始まったのです。

2 病んでいる人に目を留められるイエスさま

 今日の箇所では、ペテロの姑の癒やしが記されています。イエスさまがペテロの家に入られたとき、まず目を留められたのは、熱を出して寝込んでいる姑でした。イエスさまの目は、いつも病んでいる者、弱っている者に向けられます。愛とあわれみのまなざしをもつお方は、人の痛みを自分のことのように感じ、その人に寄り添われるのです。

キリスト者も人の痛みを受け止め、その人とともに歩むことができるようになります。その目が弱っている人、助けを求めている人に向かい、その人に手を差し伸べます。私は、これまでそのような方々に助けられてきました。それは、キリスト者がいつもキリストの愛のまざさしを受けているからです。私も人々にイエスさまと同じまなざしを向けることが出来るようになりたいと願います。

3 奉仕は愛への応答

 イエスさまは彼女の手に触れられました。その瞬間、熱が引き、彼女は癒やされました。そして起き上がってイエスさまをもてなしました。この「もてなした」という言葉は「奉仕する」という意味です。ペテロの姑は、癒やしてくださったイエスさまへの感謝から、自ら進んで仕える者へと変えられたのです。奉仕とは、愛への応答です。させられるのではなく、いただいた恵みに感謝して仕えるところから生まれるものです。ルカの福音書4:39には、「彼女はすぐに立ち上がって、彼らをもてなし始めた」とあります。いえすさまに癒やしていただいた姑は、イエスさまだけではなく、イエスさまの弟子たちももてなしました。イエスさまにたいする感謝は、イエスさまにしたがっていく者たちへの奉仕となって表れます。これが、教会の中における互いの奉仕、仕え愛、愛し合いです。

4 「取りなし」はイエスさまの前に連れて行くこと

さらに夕方になると、人々は悪霊につかれた人や病気の人々を大勢イエスさまのみもとに連れてきました。彼らは、イエスさまならこの問題を解決してくださると信じ、悩める人をイエスさまのもとへ導いたのです。これが「取りなし」です。私たちも同じように、苦しむ人を祈りに覚え、教会へと導くことができます。私たちの役目は、その人をイエスさまのもとに連れていくことです。癒やしも救いも、すべてはイエスさまがしてくださいます。

5 わずらいを担い癒やしてくださるイエスさま

イエスさまの癒やしは、武力と力によってローマの支配から解放するという当時のユダヤ人の思いとは異なっていました。しかし、この出来事は、イザヤ書53章の預言の成就でした。「彼は私たちのわずらいを担い、私たちの病を負った。」イエスさまは病そのものだけでなく、その根にある罪の問題を負われました。十字架において、私たちの罪と痛みを身に引き受け、打たれ、砕かれることによって、私たちに平安と癒やしをもたらしてくださいました。イエスさまによる神の国とは、愛とあわれみによる御支配だったのです。

6 おわりに

イエスさまは今も、私たちのわずらいを担い、病を負ってくださいます。だからこそ、安心して自分の重荷をイエスさまにゆだねることができます。私たちは、イエスさまの愛に生かされて、弱っている人に目を留め、悩んでいる人をイエスさまのもとに連れていく者でありたいと願います。

(2025年10月19日 石原 俊一 師)

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