キリストの洗足( ヨハネの福音書13章1~11節)
1 はじめに
13章から、イエス様の受難の物語が始まります。それは、イエス様が弟子たちに語られた遺言で、「愛」という言葉がキーワードです。今日の聖書箇所は、受難週の木曜日、最後の晩餐の席での出来事です。イエス様が弟子の足を洗われたエピソードは、他の福音書には記されていないユニークな記事です。
2 時が来た
この箇所には、「知っておられた」と繰り返されます(1,3,11)。イエス様は、十字架の時が来て神のもとに帰ろうとしていること、裏切る者がいること、また、父が万物をご自分の手に委ねてくださったことをすべて知っておられました。イエス様は、この世を去る前に、弟子たちにご自分の愛の何たるかを教えようとしておられるのです。
3 極みまでの愛
イエス様は、彼らを「最後まで愛された」と記されています。脚注に「極みまで」とあります。神の独り子であられるイエス様は、神に背き逆らっている私たちを救うために、しるしとみことばによって福音を語り、永遠のいのちに招かれましたが、人々が主イエスを信じない現実が明らかになりました(12章)。また、弟子たちは、最後の晩餐の席で、だれが一番偉いかと議論し(ルカ22:24)、ユダは、イエス様を裏切ろうとしていましたし、ペテロも、この直後、イエス様を三度も知らないと否むのです。それにもかかわらず、イエス様は、彼らを最後まで愛し抜かれ、十字架に向かわれたのです。
4 洗足
足を洗う仕事は、最も卑しい奴隷の仕事でした。イエス様は、食事の最中に、立ち上がり、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰に巻き、弟子たちの足を洗い始めました。上着を脱ぎ(4)、着て(12)とは、象徴的表現です。「わたしが再びいのちを得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。(10:17)」と記された「いのちを捨てる」「得る」という言葉が、上着を脱ぐ、着るという言葉と同じ言葉であり、Ⅱコリント5:2節以下においても、同様の表現で、死と復活が語られます(Cf.ピリピ2:6〜8)。
5 ペテロの戸惑い
ペテロは、「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか。(6)」、「決して私の足を洗わないでください(8)」と申し出ます。しかし、イエス様は、「わたしがしていることは、今は分からなくても、後でわかるようになります。」「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。」と語ります。洗足は、イエス様の主権的な行動で、これ抜きに、私たちはイエス様と無関係になってしまう本質的な行為です。すなわち、神であるイエス様が、神の姿をかなぐり捨て、人となり、十字架の死にまで従って、私たちを罪から救うことを象徴する演劇的行為でした。
5 おわりに~キリストがすべて
主イエスが「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいのです。」とお答えになったことは、イエス様の十字架による罪の赦しがすべて、それだけで十分で他に何物も必要がないという意味です(ヘブル9:26)。私たちも、十字架のみを見上げて、生きていきましょう。
(2025年11月9日 木田 惠嗣 師)

