ことばは人となって(ヨハネの福音書1章14節)

1  はじめに-私たちが求めている「本物の光」-

多くの人々にとって、クリスマスは「年に一度のイベント」や「家族との楽しい時間」として親しまれています。しかし、なぜこれほどまでに世界中がこの日を特別視するのでしょうか。それは、私たちの魂が本能的に、心の渇きを癒やす「大きな喜びの知らせ」を求めているからです。

今日、私たちは華やかなイルミネーションやケーキよりも温かく力強い、「本物の光」について御言葉から学びます。それは、ヨハネの福音書1章14節に記された「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」という驚くべき事実です。

2 神の子キリストが人となられた「謙卑」の奇跡

ここで語られる「ことば」とは、単なる言語ではなく、人格的な存在である神の子キリストを指しています。キリストは、この世界が造られる前から存在し、万物を創造された神そのものです。永遠のいのちを持ち、人間の理解を超えた偉大な御方が、あえて「人」となられたことがクリスマスの第一の奇跡です。

「住まわれた」という言葉の原語には「幕屋を張る」という意味があります。これは、遠い空の上から私たちを眺めているのではなく、神が私たちの隣の部屋に引っ越してこられたような近さを意味します。

無限の神が、お腹が空き、疲れを感じ、痛みを知り、やがては死を迎える「弱い肉体」をまとわれた。この「神のへりくだり」こそが、クリスマスの核心です。キリストは私たちの弱さを外側から観察するのではなく、内側から体験するために、無力な赤子としてこの世に来てくださったのです。

3 十字架という「栄光」のために

著者ヨハネは「私たちはこの方の栄光を見た」と記しました。当時の人々は、救い主に「政治的・武力的な強さ」を期待していましたが、キリストが示した本当の栄光とは「十字架」でした。

なぜ、キリストは神でありながら、完全な人でなければならなかったのでしょうか。それは、アダム以来の「人間の罪」に対する罰を、人間として身代わりに受ける必要があったからです。しかし同時に、死に打ち勝ち、神と人との間を取りなすためには、完全な神でなければなりませんでした。つまり、クリスマスに誕生した幼子イエスは、その時からすでに「十字架で死に、罪の借金を完済する」という使命を帯びていたのです。一見みじめに見える十字架の死こそが、神の愛の極致であり、私たちの絶望を希望に変える「栄光」の姿でした。

4 恵みとまことに満ちた歩み

このキリストは「恵みとまこと(真理)」に満ちておられると語られています。恵みとは、人間の功績に関わらず注がれる、神の一方的な愛と憐れみです。まこととは、 決して揺らぐことのない神の誠実さと変わらない真理です。

これは、旧約聖書で神がモーセに約束された「憐れみ深く、恵み豊かな神」という宣言の成就です。私たちは、恵みや真理をネットの情報や一時的なイベントに求めがちですが、本当の満たしはキリストのうちにしかありません。

ですから、私たちは、恵やまことをキリストに求めればよいのです。目を向ける先は問題ではありません。人でも自分でもありません。「イエスさま、あなたが与えてくださる恵と祝福に感謝します。「イエスさま、このことが分かりません。どうか教えてください」と、ひたすら恵とまことをくださるイエス・キリストに向かいます。それがキリスト者の歩みです。

5 おわりに-心の扉をたたく主を迎える-

クリスマスは、単なる歴史上の出来事ではありません。恵みとまことに満ちたキリストが、今、あなたの人生という場所へ引っ越してこられた日です。主はあなたの心の扉をたたき、共に歩みたいと願っておられます。この壮大な神の愛の計画を受け入れ、自分自身の救い主としてキリストを迎えること。それこそが、私たちの心に本当の光が灯る瞬間なのです。

(2025年12月21日 石原 俊一 師)

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