新しい生き方への転換(マタイの福音書9章14~17節)
1 はじめに
イエス様が説く福音は、信じる者の生き方を劇的に変える力を持っています。しかし、バプテスマのヨハネの弟子たちは、依然として古い習慣に縛られたままでした。主は彼らの理解不足を愛をもって指摘されます。私たちは今日、この御言葉を通して「新しい生き方への転換」がいかなるものかを共に学びたいと思います。
2 今は花婿なるイエス様を喜ぶとき
ヨハネの弟子たちがイエス様のもとに来て、「なぜ私たちはたびたび断食をするのに、あなたの弟子たちはしないのですか」と問いました。パプテスマのヨハネは、イエスさまをキリストであることを指し示した預言者です。しかし、ヨハネの弟子たちは禁欲的な師ヨハネの「形」を熱心になぞっていたのです。これに対し、イエス様は「花婿が一緒にいる間、付き添う友人たちは悲しむことができるでしょうか」と答えられました。
旧約聖書において、神様はイスラエルの「花婿」として描かれます。今、救い主イエス様がこの世に来られたということは、まさに結婚式の祝宴のような大きな喜びの時なのです。断食は本来、悲しみや悔い改めの印ですが、神の子が目の前におられる今は、悲しむ時ではなく、主を喜び、主と交わる時です。私たちは、断食という形式や自分の敬虔さに固執するあまり、肝心の「イエス様と共にいる」という喜びを見失ってはいないでしょうか。信仰の本質は、形をなぞることではなく、救い主を喜び、その御顔を見上げることにあるのです。
3 古い自分に新しい布を継ぎ当ててはならない
次に主は、「真新しい布切れで古い衣に継ぎ当てをしない」という比喩を語られました。古い衣とは、自分の行いや努力によって神に認められようとする、律法主義的な生き方です。対して真新しい布とは、ただキリストを信じることで与えられる福音の救いです。私たちは信仰によって救われたはずですが、つい「良い行いをして認められたい」という古い衣に執着し、そこに福音を継ぎはぎしようとします。しかし、それでは衣が引き裂かれ、不自由になるばかりです。ある牧師は「私は神様から0点をいただいて生き生きしている」と話されました。しかし、その牧師の話を聞いたある信徒が「でも私は60点欲しい」とつぶやきました。これが古い衣を残したままで福音をつぎはぎしようとする行きからです。ある牧師のように自分への期待を捨て、ただ主の恵みに飛び込む。その潔い転換こそが、主が求められている「新しい生き方」です。
4 新しいぶどう酒は新しい皮袋に
さらに主は、「新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきだ」と教えられました。信仰による新しいいのちは、律法という「古い皮袋」には収まりきりません。かつての教会では娯楽を禁じ、や禁欲を厳格に求めましたが、もし信仰が「あれもダメ、これもダメ」という不自由なルールに縛られているなら、それは新しいぶどう酒を古い皮袋に閉じ込めようとしているのかもしれません。
新しい皮袋の生き方とは、食事も、趣味も、人生のあらゆる営みを「主のために」喜び、感謝して行う歩みです。ローマ信徒への手紙が教えるように、私たちは生きるにしても死ぬにしても主のものです。バドミントンを楽しむことも、それが主への感謝から出るものであれば、素晴らしい信仰の証しとなります。何をするにも主を崇め、主と共に歩む自由こそが、新しい皮袋にふさわしい生き方なのです。
5 おわりに
今日の御言葉は私たちに二つのことを問いかけています。
○行いによって義を求める古い衣を着たまま、形だけの信仰生活を送っていないか。
○救われた者として、すべての営みを「主のために」生き生きと楽しんでいるか。
例えズレが生じたとしても、聖霊の力によって立ち返れば大丈夫です。イエス様は私たちの救い主です。この新しい一週間、恵みの自由の中に、新しいぶどう酒を溢れさせながら歩んでまいりましょう。
(2026年1月25日 石原 俊一 師)

