ささやかな信仰(マタイの福音書9章18~26節)
1 ささやかな信仰を尊ばれたイエスさま ―会堂司の信仰―
一人の会堂司が登場します。彼は、イエスさまの前にひれ伏しました。彼は「娘が死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば生き返ります」と願いました。この姿について、宗教改革者のカルヴァンは、以前登場した百人隊長と比較して「信仰の片鱗すら見られない」と厳しく評しました。百人隊長は「お言葉をいただくだけで十分です」と言ったのに対し、会堂司は「わざわざ家に来て、手を置いてほしい」という方法まで指定したからです。
確かに、百人隊長に比べれば、彼の信仰は不完全だったかもしれません。しかし、イエスさまはどうされたでしょうか。イエスさまは食事中であったにもかかわらず、何も言わずに立ち上がり、会堂司に従って行かれました。ここにイエスさまの深い慈しみがあります。イエスさまは、信仰の大小や深浅によって人を退けることはなさいません。「イエスさまが手を置けば娘は助かる」という、彼の切実で、不完全ながらもひたむきな信頼を尊び、その願いに応じられたのです。
私たちの信仰もまた、不完全かもしれません。しかしイエスさまは、私たちが「それでも信じたい」と願うささやかな思いを、誠実に見出し、尊重してくださるお方です。
2 ささやかな信仰を尊ばれたイエスさま ―長血の女の信仰―
会堂司の家に向かう途上で、もう一人の人物が現れます。十二年もの間、出血が止まらない病に苦しんできた女性です。当時の社会で、彼女は「汚れた人」として疎外され、絶望の中にありました。彼女は群衆に紛れ、背後からイエスさまの衣の房に触れました。「この方の衣に触れさえすれば救われる」と考えたのです。この行動を、「衣に力があると思い込む偶像崇拝的な考えだ」と批判する人もいるでしょう。しかし、イエスさまは振り向いて彼女に言われました。「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」。
彼女にとって「衣の房に触れる」ことは、言葉にならない精一杯の信仰の告白でした。イエスさまは、形や作法ではなく、その行動の奥にある「イエスさまなら救ってくださる」という心の真実を見抜かれました。人は外見や行動で判断しますが、イエスさまは私たちの痛みや、人には理解されない心の震えを分かってくださる方です。
3 死を支配し、永遠のいのちに導くイエスさま
ようやく到着した会堂司の家では、すでに少女が亡くなっており、人々が騒ぎ、イエスさまをあざ笑いました。彼らにとって「死」は取り返しのつかない終着点です。しかし、イエスさまは言われました。「その少女は死んだのではなく、眠っているのです」。イエスさまにとって、死は呼び起こすことができる一時的な状態にすぎません。主が少女の手を取られると、彼女は起き上がりました。これは、イエスさまがいのちそのものを御支配される救い主であることを示しています。
しかし、たとえ生き返ったとしても、人はいつか再び死を迎えます。根本的な解決のためには、死の原因である「罪」の問題が解決されなければなりませんでした。だからこそ、イエスさまは後に十字架にかかり、私たちの罪を身代わりとなって背負われました。この主の死と復活によって、死はもはや「終わり」ではなく、再会を待つ「眠り」へと変えられたのです。テサロニケの手紙にあるように、イエスさまを信じる者は、例え死を経験しても「眠っている人」となります。いつか主が再び来られるとき、私たちは復活の体を与えられ、永遠に主とともに歩むことになる。これが、私たちに与えられている確かな希望です。
4 おわりに
もし皆さんが、自分の信仰が小さいと感じ、不安になることがあっても、落胆しないでください。イエスさまは、その「ささやかな信仰」を宝のように尊んでくださいます。私たちの不完全さを丸ごと引き受け、死を希望へと変えてくださる主の愛に、私たちの魂をゆだねようではありませんか。
(2026年2月1日 石原 俊一 師)

