イエス・キリストの権威とあわれみ ― 悪霊の支配から解放する愛 ―(マタイの福音書8章28~34節)

1 はじめに-すべてを支配する主の愛-

マタイの福音書を通じて、私たちはイエスさまが神の国を広げていかれるお姿を仰ぎ見てきました。イエスさまは、病を癒やし、自然界を静め、その圧倒的な権威を示されました。しかし、その権威の背景には、常に私たちに対する限りない「愛とあわれみ」があることを忘れてはなりません。

今日、私たちはイエスさまと悪霊との対決という場面に向き合います。悪霊は今も形を変え、巧みに身を潜めながら、私たちを神さまから引き離そうと働いています。この箇所から、主がどのように私たちを解放し、守ってくださるのかを共に学んでまいりましょう。

2 悪霊の正体と、私たちの陥る罠

ガダラの地でイエスさまを待ち構えていたのは、墓場に住む二人の悪霊につかれた者たちでした。聖書は、悪霊の恐ろしい特徴を浮き彫りにしています。第一に、悪霊は人を「孤独」へと追い込みます。彼らは人々との交わりを断たれ、死の象徴である墓場で暮らしていました。第二に、彼らは「暴力的」であり、自分も他人も傷つけ、人間関係を破壊します。そして第三に、悪霊はイエスさまが「神の子」であることを誰よりもよく知っており、その権威に怯えていました。

第三の特徴から精神疾患と悪霊の働きは別物であるということがわかります。精神疾患は脳や心の病です。たとえ病の中にあったとしても、聖霊に導かれ、主とつながり、愛し合って生きる道は開かれています。

むしろ、悪霊の働きはもっと巧妙です。仕事に没頭させすぎて教会から足を遠のかせたり、過去の恵みにばかり執着させて「今、ここ」におられる神さまを見失わせたりします。私たちが気づかないうちに、神さま以外のものに心を支配させてしまう。これこそが、現代における悪霊の狙いなのです。

3 イエスさまの深いあわれみと悪霊の結末

悪霊たちは叫びました。「私たちと何の関係があるのですか!」と。しかし、これは取り憑かれた二人の本心ではありません。彼らの心の奥底には、「助けてほしい、あわれんでほしい」という言葉にならない叫びがあったはずです。イエスさまは、その悲しみと痛みをすべて汲み取られました。悪霊が吠え立てる言葉の裏にある、傷ついた魂を見つめておられたのです。私たちの周りにも、心ない言葉を吐いてしまう人がいるかもしれません。しかし、その内側には寂しさや虚しさが渦巻いていることがあります。イエスさまがそうであったように、私たちもその人の痛みを想像し、主の愛をもって関わっていきたいものです。

イエスさまは、悪霊に「行け」と命じられました。悪霊は豚の群れへと移りましたが、その結果、二千匹もの豚が崖を下って溺れ死んでしまいました。悪霊が支配するところには、命が失われる結末しかないのです。町の人々はイエスさまに「立ち去ってほしい」と願いました。二人の魂が救われた喜びよりも、豚という財産を失った喪失感に心が支配されてしまったのです。 しかし、イエスさまの権威がもたらすものは「命の回復」です。主は、莫大な経済的価値がある二千匹の豚よりも、たった二人の、誰からも見捨てられた魂を救うことを選ばれました。一人の魂は、全世界よりも尊い。これが、主の価値観なのです。

4 結び:圧倒的な勝利者として歩む

主はその十字架によって死に打ち勝ち、私たちの罪を完全に赦し、悪霊に対して圧倒的な勝利を収められました。ローマ人への手紙にある通り、死も、いのちも、支配者も、今のものも、後のものも、どんな被造物も、私たちをキリストの愛から引き離すことはできません。私たちは、この愛によって「圧倒的な勝利者」なのです。
悪霊の働きを見て恐れる必要はありません。世の終わりの時、悪霊は完全に滅ぼされます。その日は必ず来ます。ですから私たちは、ただひたすらに、権威と知恵、そして何よりも「愛とあわれみ」に満ちたイエス・キリストを見上げようではありませんか。このお方に信頼し、主の愛に包まれて、今日からの歩みを進めてまいりましょう。

(2025年12月28日 石原 俊一 師)

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