希望をもって(ローマ人の手紙15章13節)

0 はじめに

世の人々が抱く「希望」は、が「何か良いことが起こればいい」という漠然とした願望です。しかし、私たちキリスト者が抱く希望は、聖書が示す「神の確かな約束」に基づいています。本日は、この揺るぎない「希望」について、4つの視点から分かち合います。

1 希望があるから耐えられる

第1に、「希望があるからこそ、私たちは耐えることができる」ということです。希望と忍耐は、常に一対となって働きます。 かつて、ある牧師の家庭では、クリスマスの数週間前からプレゼントがタンスの上に置かれていたといいます。幼い息子は、早く遊びたい気持ちを抑え、約束の日を待ちました。なぜ耐えられたのでしょうか。それは「その日が来れば必ず自分のものになる」という確かな希望があったからです。 また、心理学者フランクルは、強制収容所という極限状態の中で、解放後に教壇に立つ自分を具体的にイメージし続けました。未来への希望が、彼の心を崩壊から守り、生き抜く力を与えたのです。 聖書は「主イエス・キリストに対する望みに支えられた忍耐」を教えています(第一テサロニケ1:3)。私たちもまた、主の約束という確かなプレゼントを確信しているからこそ、今の労苦を耐え忍ぶことができるのです。

2 私たちの希望の源は神さまにある

第2に、「私たちの希望の源は、神さまご自身にある」ということです。 新約聖書において「希望」という言葉は、その多くが三位一体の神と結びついて語られています。私たちの希望は、単なる「状況の改善」や「願いの成就」にあるのではありません。キリストというお方、そのお方がなされる御業そのものに希望を置くのです。 福島で伝道を始めた先達は、思うように実を結ばない苦悩の中で、「教会の存続さえも神の御心であれば、それに従えばよい。ただ御心の道を行け」と励まされました。自分の小さな願いを捨て、神の最善に身を委ねること。それこそが、キリスト者の本当の希望です。たとえ目の前の状況が厳しくとも、希望の神が私たちを喜びと平安で満たしてくださるのです。

3 私たちの希望は救いの完成にある

第3に、「私たちの希望は、救いの完成にある」ということです。 聖書が示す最大の希望は、主イエスが再び来られる「再臨」と、それに続く「救いの完成」です。私たちは今、罪の世で弱さを抱え、病や老いに不安を感じることもあります。認知症を患い、自分が自分でなくなるような恐れを抱くかもしれません。 しかし、復活の主を信じる私たちには、栄光の体に変えられるという約束があります。肉体が衰えても、内なるキリストは輝きを増し、終わりの日には完全な救いへと導かれます。この「復活の希望」こそ、私たちがこの世の惑わしに打ち勝つための兜となるのです。

4 希望をもって今を誠実に生きる

第4に、「希望をもって、今を誠実に生きる」ということです。 かつて、主の再臨を待ち望むあまり、日常の仕事や社会的な責任を放棄してしまう人々がいました。しかし、聖書が求める態度はそうではありません。ペテロは「心を引き締め、身を慎み……ひたすら待ち望みなさい」と命じました(第一ペテロ1:13)。 「心を引き締める」とは、戦いや旅への積極的な備えを意味します。いつ主が来られても良いように、今置かれている場所で、誠実に、堅実に歩むこと。再臨の希望に根ざしながらも、目の前の社会的な責任を果たすバランスこそが、真の信仰者の姿です。

5 おわりに

私たちの前にある壁がどんなに高く見えても、希望の主が共にいてくださいます。私たちの人生には、キリストという確かなゴールがあります。この新しい一年、神さまが用意してくださっている「救いの完成」という大きな希望に向かって、一日一日を主と共に、誠実に歩んでいきましょう。

(2026年1月4日 石原 俊一 師)

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