すべての道で主を知れ(箴言3章6節)

1 あなたの行く道すべてにおいて主を知れ(6節前半)

ここで言われている「道」とは、私たちが人生の中で選び取る「生き方」そのものを指しています。私たちは日々、大きな決断から小さな選択まで、無数の判断を繰り返しています。ある研究によれば、人は一日に最大3万5千回もの選択をしているそうです。つまり、私たちの人生は、2秒に1回という驚くべきペースで行われる「選択」の積み重ねによって形作られているのです。神さまは私たちに自由意志を与えてくださいました。道を選ぶのは私たち自身です。しかし、その一つ一つの選択において「主を知れ」と、今日の御言葉は語りかけているのです。

「主を知る」とは、それは単なる知識として神さまを理解することではありません。ここで使われているヘブライ語の「知る」という言葉には、非常に深い意味が込められています。かつての翻訳では「主を認めよ」とされていましたが、新しい翻訳で「知れ」と改められたのは、これが「人格的な交わりの中で、主をより深く、親密に知る」ことを意味しているからです。

私たちが主を知るとは、自分の弱さや罪、あるいは神さまを裏切ってしまうような愚かさを抱えたままで、なおも愛し、赦し、導いてくださる主の慈しみを受け取っていくプロセスです。エペソ人への手紙が語るように、キリストの愛の「広さ、長さ、高さ、深さ」を、理屈ではなく実体験として理解していくことなのです。自分のありのままの姿を主の前に差し出し、その人格的な信頼関係の中で神さまを深く知っていく。これこそが、私たちの歩むべき「道」の土台となります。

2 主があなたの道をまっすぐにされる(6節後半)

ここで言う「道」は、私たちが実際に踏みしめる具体的な一歩一歩の歩みを指します。そして「まっすぐ」とは、神さまの御心にかなった、誠実で正しい状態を意味しています。

私たちは、救いを与えられた者であっても、なお罪の性質を持って生きる不完全な存在です。ですから、放っておけば私たちの歩みはすぐに曲がり、主の道から外れてしまいます。一歩進むごとにずれていってしまうのが、私たちの現実ではないでしょうか。しかし、だからこそ「主を知ること」が重要なのです。

私たちが道を見失い、間違えてしまったその場所で、「主よ、私は間違えました」と主を仰ぎ見るとき、私たちはそこに今も共におられる主の臨在に出会います。「こんな私をも主は愛し、正しい方向へ導こうとしておられる」という事実に触れるのです。これが「主を知る」ということです。そのとき、主は曲がってしまった私たちの道を、再びまっすぐな道へと戻してくださいます。

ある注解書には、この真理について「鳥の目で人生を捉えなさい」という言葉があります。近づいて(虫の目で)見れば、私たちの歩みははみ出したり戻ったりを繰り返す、歪な線に見えるかもしれません。しかし、遠く高い神さまの視点(鳥の目)から見れば、失敗するたびに主を呼び、主のもとに立ち返り続けてきたその全軌跡こそが、主によって整えられた「まっすぐな道」となっているのです。

3 終わりに

私たちは自分の力で立派に生きようと背伸びをする必要はありません。自分を整えてから神さまの前に出るのではなく、ありのままの姿を差し出し、導きを委ねればよいのです。そして、「立ち返り」の連続の中でこそ、私たちは人知をはるかに超えたキリストの愛を、より深く知ることができます。愛されているからこそ、最高のガイドである神さまのもとへいつでも帰ることができる、その特権を味わおうではありませんか。

まずは明日の朝、一日3万5千回の選択を始める前に、一言こう祈ることから始めてみませんか。「主よ、今日一日の歩みを、あなたが導いてください」と。その祈りから始まるすべての道において、主は必ずあなたと共に歩み、あなたの道をまっすぐにしてくださいます。

(2026年1月1日 石原 俊一 師)

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