まことの光(ヨハネの福音書1章9~12節)
1 はじめに
先週学んだバプテスマのヨハネは光の証人でした。ヨハネが指し示したまことの光とは誰であり、その光は私たちに何をもたらすのでしょうか。今日の箇所には、その「まことの光」の御姿が明らかにされています。このお方こそ、イエス・キリストです。
2 世に来ようとしていた創造主キリスト
イエス・キリストは、旧約聖書に預言されたとおり、いよいよこの世に来られようとしていました。(9節)当時の人々は、私たちを救ってくれる王、救い主の到来を心待ちにしていました。
キリストは、クリスマスに誕生する遥か前から存在しておられました。(10節前半)そして、驚くべきことに、「世はこの方によって造られた」のです。私たちが待ち望むイエス・キリストは、この世界を創造された神の子なのです。もし私たちがキリストを単なる偉大な教師としてしか見ていなければ、私たちの信じる神は小さすぎます。キリストは、この世界を創造された神の子であるにもかかわらず、人となってこの世に来られました。これがいかに大きな出来事であったかを、待降節の今、思い巡らしたいと思います。しかし、10節の後半にあるとおり、世はこの方を知りませんでした。
3 ご自分の民に拒絶された愛
待ち望まれたキリストの誕生しました。人々は喜んでお迎えしたのでしょう。「ご自分の民」、イスラエルの民はキリストを受け容れませんでした。(11節)なぜでしょうか。それは、彼らが思い描いていた救いと、神さまのご計画にある救いとに大きな隔たりがあったからです。
当時の民は、ローマの支配を打ち破り、国を独立させる力ある王としてのキリストを信じていました。ところが、実際に来られたイエス・キリストは、力ではなく愛によってこの世を支配しようとされました。このギャップがあまりにも大きすぎたため、律法学者やパリサイ人、そして群衆は、自分たちの思いと異なるキリストを拒絶し、最終的に十字架にかけてしまいます。自分の思い、自分の計画を神の御心よりも優先し、神の子を殺してでもそれを押し通そうとした結果国を失うという悲劇を生みました。
私たちも、自分の思いを最優先し、それが神さまの御心と異なっていても、自分の思いを押し通そうとしてしまいます。愛をもって来られたキリストを拒絶し、自分の力で生きようとすることは、私たちの罪の実態と重なります。
4 神の子どもとなる最高の特権
イエス・キリストは、世から受け入れられず十字架に架けられましたが、この十字架こそが私たちの救いとなりました。キリストは私たちの罪の罰を負い、信じる者には神の義を与えてくださいました。そして、イエスさまが救い主であることを信じ、受け入れた私たちは、「神の子ども」とされます。(12節)私たちは、この特権によって、「お父さま」と父なる神に祈ることができるようになりました。神さまの私たちへの愛は、肉の親の愛をはるかに超え、私たちの罪をすべてご存知の上で、「子よ」と呼び、愛してくださいます。
この神の子であるという確信こそが、私たちを支えます。恐れや不安は消え、私たちは神の子としてどんな問題の中も歩み抜くことができます。なぜなら、父なる神が、子である私たちを守ってくださることを信じているからです。「私は神の子どもです」「私は父なる神に愛されています」と確信をもって証できること、それがキリスト者としての大きな喜びです。
5 終わりに
待降節の時に、私たちは自分の信仰を振り返りましょう。自分の思いを優先せず、まことの光であるキリストを、そのまま心から信じ受け入れているでしょうか。私たちは、まことの光であるキリストを受け入れた結果、この世界を創られた父なる神に「お父さま」と呼べる最高の特権をいただきました。この揺るぎない確信を抱き、イエス・キリストの誕生を心から喜び迎え入れましょう。
(2025年12月14日 石原 俊一 師)

