光の証人 (ヨハネの福音書1章6~8節)

1 はじめに

待降節(アドベント)の第3週に入りました。私たちはイエス・キリストが来られることを待ち望んでいますが、2000年前のイスラエルでは、キリストととに先駆者である預言者も待ち望んでいました。今日は、先駆者であるバプテスマのヨハネの役割と、彼を通して示される神の救いの計画を知り、主の降誕を待ち望むときとしましょう。

2 430年の沈黙を破った神の壮大なご計画

旧約聖書の預言者マラキが、救い主キリストの前に「エリヤのような預言者」が遣わされると預言した後、神の御声は約430年間、聞こえなくなっていました。イスラエルの人々が希望を失いかけていたその時に、荒野で登場したのがヨハネでした。彼の出現は、「いよいよキリストによる救いがやって来る」という、神の愛の約束が動き出した証拠でした。

私たちがキリストに出会った道筋にも、必ず神の配慮があります。あなたがたがイエス様を知るために、神は誰かを、ある出会いを「遣わして」くださったのです。そして今度は、私たちがその神の愛のご計画の中で、誰かをキリストに導く「主の遣い」となることができます。それもまた壮大な神さまのご計画の一つであり、恵と祝福です。

3 ただキリストを指したヨハネ

では、神から遣わされたヨハネの役割とは何だったのでしょうか。それは、「光について証しするため」(ヨハネ1:7)でした。ヨハネが指し示した「光」こそ、私たちが今待ち望んでいるイエス・キリストです。アブラハムからマラキまで、すべての預言者が「やがて来られるキリスト」を預言しましたが、現実に「見よ、神の子羊」とキリストを直接指し示したのは、ヨハネただ一人でした。これは、すべての預言者の中で、ヨハネだけに与えられた特別な栄誉でした。ヨハネは、自分の弟子たちが自分のもとを離れ、イエスに従っていくのを静かに見送りました。そして、こう語りました。「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」(ヨハネ3:30)彼は、光なるキリストが輝くために、自分は影となることを選びました。結果として、ヨハネの人生は領主ヘロデに捕らえられ、首をはねられるという悲惨な結末を迎えました。しかし、イエス様は彼を*「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネより偉大な者」と最大限に称賛されます。その理由は、彼が自分の生涯をかけて、ひたすらキリストを指し示す「光の証人」としての務めを果たし切ったからです。

4 ただ光なるイエス・キリストを目指して

ヨハネの福音書には、あえて繰り返される言葉があります。「彼は光ではなかった。ただ光について証しするために来たのである。」(ヨハネ1:8)これは、著者が私たちの弱さを知っていたからです。私たちは、素晴らしい働きをしたヨハネ自身を光だと誤解し、キリストから目を離してしまう弱さを持っています。それは、過去の良き経験や、立派な牧師先生、あるいは熱心な信徒の姿に囚われてしまい、その人が指し示す光(キリスト)を見失ってしまうことと同じです。

私たちが「このようになんのとりえもない私が証しなんてできない」と感じるかもしれません。不器用で、失敗ばかりかもしれません。しかし、ある牧師先生はいいました。「不器用でいいじゃないか。失敗したその場所でイエスさまを慕っていけばいい」。大切なのは、証人である私たち自身の姿は関係ないということです。私たちが光なのではなく、光が素晴らしいから、私たちはただそれを語れば良いのです。不器用なあなたの姿であっても、その目がひたすらイエス様という光を求め続けているなら、その姿は周囲の人々の目をキリストに向けさせる、力強い証しとなります。

5 おわりに-光を見つめ、光を指し示す待降節

この待降節、私たちはもう一度立ち止まり、自分の指がどこを指しているのかを問いかけましょう。私たちは、自分の弱さや不器用さに関わらず、光であるキリストを指し示すために遣わされています。ヨハネが自分の全てを消してキリストを証したように、私たちもまた、自分の人生をかけてキリストという光を見つめ、そしてキリストの誕生を心から待ち望む「光の証人」として、この恵みの時を歩んでまいりましょう。

(2025年12月7日 石原 俊一 師)

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