あわれんでください(マタイの福音書9章27~34節)

1 はじめに

マタイの福音書8章から9章にかけては、イエスさまが愛とあわれみをもって神の御支配を広げられる姿と、それに出会った人々の「信仰と不信仰」が鮮明に描かれています。本物が現れると偽物が露わになるように、真実なるイエスさまの前に立つとき、私たちの内側にあるものは隠しきれなくなるのです。

2 「あわれんでください」という叫び

イエスさまがカペナウムの道を歩まれる際、二人の盲人が「ダビデの子よ、私たちをあわれんでください」と叫びながらついて来ました。当時、盲目であることは社会的な疎外だけでなく、神の裁きを受けていると見なされる絶望的な状況を意味しました。彼らが求めたのは、現代的な「支援」ではありません。支援とは相手の主体性を尊重するものですが、彼らが叫んだ「あわれれみ(キリエ・エレイソン)」は、自分の力ではどうすることもできない罪と絶望を自覚し、ただ神の慈愛にすがる謙虚な祈りです。神さまの前で自らを低い存在であると認めることは、屈辱ではなく、救いへの第一歩なのです。

もし「自分は頑張って生きている、あわれみなど不要だ」と思うなら、その人はまだ自分の罪の大きさに気づいていないのかもしれません。しかし、神さまとの断絶という根本的な問題が解決し、神の恵みを100%受け取るとき、私たちは初めて他者とも適切な関係を築けるようになるのです。

3 信仰という「器」

イエスさまは、彼らが家の中まで必死について来るのを待ってから、「わたしにそれができると信じるのか」と問われました。彼らが「はい、主よ」と答えると、イエスさまは「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言って目を癒やされました。

ここでいう「信仰のとおり」とは、能力の量を測るものではなく、神のわざを受け取る「器の大きさ」を指しています。信仰とは私たちの手柄(功績)ではなく、宝である神の力を注いでいただくための「土の器」にすぎません。彼らはイエスさまに無視されても食い下がり、必死に求め続けました。その必死さこそが、神の力を受け取る大きな器となったのです。

4 三種類の人々と霊の目

この箇所には、イエスさまのわざを目の当たりにした三種類の人々が登場します。

第一は、信じた人々です。 特に二人の盲人は、肉体の目は見えずとも「霊の目」が開かれていました。彼らがイエスさまを「ダビデの子(メシア)」と呼んだのは、イザヤの預言(盲人の目が開かれる)が成就したことを悟っていたからです。

第二は、驚くだけの群衆です。 彼らは奇跡を見て驚嘆しますが、イエスさまを自分事として受け入れようとはせず、真理に対して鈍いままです。

第三は、否定するパリサイ人です。 彼らは奇跡の事実は認めながらも、「悪霊の頭の力だ」と理屈をつけて神の働きを拒絶しました。

5 おわりに-どん底から叫ぶ信仰-

イエスさまが預言を成就するキリストであると正しく悟ったのは、社会のどん底にいた盲人たちだけでした。私たちは、群衆のように信仰を他人事として眺めていないでしょうか。あるいはパリサイ人のように、理屈で神さまを制限していないでしょうか。

私たちが目指すべきは、自分の弱さと罪を認め、どこまでもイエスさまについていった二人の盲人の姿です。今、もし皆さんが問題や罪に悩んでいるなら、どうか「主よ、あわれんでください」と叫んでください。その切なる信仰の器に、神さまは必ず豊かな恵みを注いでくださいます。

(2026年2月8日 石原 俊一 師)

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