宣教の心得②-御心を歩む-(マタイの福音書10章8b~15節)
1 はじめに
イエスさまによる宣教の心得、その第2回目を共にご一緒に学んでまいりましょう。今日お読みした箇所には、神さまの御心を歩むための大切な4つの原則が示されています。
2 無償の働き手の生活を支える
イエスさまは「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」と言われました。宣教の働きは、報酬を目的とするものではありません。神さまから頂いた計り知れない恵みを、無償で分かち合うこと。これが宣教の本質です。
一方で、イエスさまは「働く者が食べ物を得るのは当然だ」とも語られました。これは「働く者には生活を支えられる価値がある」という意味です。現代の教会においても、牧師は対価を求めず誠実に奉仕し、信徒はその生活を支える責任を負います。そこにあるのは、単なる金銭のやり取りではなく、神さまを中心とした深い信頼関係です。互いに神さまを見上げて歩むとき、教会は健全に建て上げられていくのです。
3 神さまが示した場所に留まる
次に、イエスさまは「ふさわしい人を探し、そこを立ち去るまで留まりなさい」と教えられました。この「ふさわしい人」とは、条件の良い人ではなく、福音を共に喜んでくれる人のことす。
大切なのは、一度「ここが神さまの導きだ」と示されたなら、例えそこに問題や困難があっても安易に離れないことです。私たちは自分の思いで「あちらのほうが楽そうだ」と動いてしまいがちですが、留まり続ける中でこそ、私たちの自我は砕かれ、神さまの祝福を深く味わうことができます。神さまが導かれたその場所に留まることが、私たちの信仰を成長させるのです。
4 与えられている平安を渡す
宣教者が家に入るときには「平安(シャローム)」を祈ります。これは単なる挨拶ではなく、キリストの支配による本当の平和を分かち合う行為です。もし相手がその平安を拒んだとしても、心配はいりません。その平安はあなたのもとに返ってきます。私たちは「上手に話せるだろうか」「拒絶されたらどうしよう」と不安になりますが、結果は相手と神さまの問題です。「その家がそれにふさわしければ、あなたがたの祈る平安が…」と語るイエスさまは、「あなたは、すでにイエスさまの御支配の中、イエスさまの平安の中にいる存在です」と認めてくださっています。あなたはただ、自分の中にあるキリストの平安を、心を込めて相手に手渡せばよいのです。たとえ受け入れられなくても、あなたは依然として神さまの平安の中に留まっているのですから、落ち込む必要はないのです。
5 神を侮る者から離れる
イエスさまの福音を聞いた者が最後まで立ち返らなければ、イエスさまを知らないソドムやゴモラよりも大きなさばきを受けることになります。 宣教は、町全体の運命を左右する重大なメッセージを語ることなのです。私たちは、イエスさを伝えることの重みを厳粛に受け止める必要があります。
しかし、イエスさまは、どうしても言葉を聞き入れない相手に対しては「足のちりを払い落としなさい」と言われました。これは冷酷な突き放しではありません。福音は罪人を救う唯一の特効薬であり、あまりに拒絶する者に執着しすぎると、かえって救いの尊さを安売りし、相手に神を侮らせることになりかねないからです。「足のちりを払う」とは、自分の情や力を一旦手放し、その人を完全に「神さまの手」に委ねきることです。審判の責任は神さまにあります。私たちは自分の力で何とかしようとせず、時には一線を引くことで、神さまの御心に従う勇気を持たなければなりません。
6 おわりに
これら4つの視点に共通しているのは、「自分の思い」を横に置き、「イエスさまの御心」を歩むということです。宣教が思い通りにいかないときこそ、神さまの御心がどこにあるかを見極めましょう。
「自分には力がない」と尻込みする必要はありません。あなたには既に、神さまの恵みと平安が与えられています。その平安を信じて、出会う人々を祝福し、今日からの一歩を踏み出していこうではありませんか。
(2026年3月8日 石原 俊一 師)

