宣教の心得④-恐れなくてもよい-(マタイの福音書10章24節~33節)
0 はじめに
主イエスが弟子たちを宣教に遣わすにあたってお語りになった「宣教の心得」。その中心にあるメッセージは、24節から33節の中で何度も繰り返される「恐れてはいけません」という言葉です。これから激しい迫害に直面する弟子たちへ、主が贈られた6つの励ましを分かち合いましょう。
1 イエスさまは、より大きな苦しみを担われた
「弟子は師以上の者ではない」という格言を、主は「苦しみの大きさ」という意味で用いられました。弟子が受ける苦しみは、すべての人の罪を背負って十字架にかかられた主の苦しみを超えることはありません。主が「ベルゼブル(悪霊の頭)」と罵られたのなら、弟子である私たちが中傷されるのも当然のことです。しかし、主が先にその道を歩まれたことを思うとき、私たちは独りではないと励まされるのです。
2 迫害者の悪はやがてすべて暴かれる
今は迫害者が力強く、正しい者の声が踏みにじられているように見えるかもしれません。しかし、主は言われます。「覆われているもので現されないものはない」と。やがて神の裁きの座ですべての真実が明るみに出る時が来ます。そのとき、あなたの正しさは証明されます。ですから、暗闇に怯えることなく、主の言葉を堂々と語り広めてよいのです。
3 迫害者はあなたの魂を滅ぼすことはできない
迫害者は肉体の命を奪うことはできても、魂までを滅ぼすことはできません。真に畏れるべきは、命の主権者である神さまだけです。私たちには「復活の希望」があります。たとえこの世で命を落としても、新しい体を与えられ、永遠に神さまと共に生きる約束がある。この希望こそが、死の恐怖に打ち勝つ力となるのです。
4 すべてのことは神さまの御手にある
一羽の雀が地に落ちることでさえ、神さまの許しなしには起こりません。ましてや、神さまは私たちの「髪の毛さえもすべて数えられている」ほど、私たちを深く知っておられます。私たちは雀よりもはるかに価値ある存在です。殉教さえも神さまの主権の外で起きる悲劇ではなく、神さまはそれを通してさえご自身のご栄光を現されます。私たちはただ、神さまの最善の導きを信頼して歩めばよいのです。
5 人々の前で「わたしが主である」と告白しなさい
弟子たちは迫害者の前に立たされどのように応じたらよいか戸惑うときがあったでしょう。しかし、イエスさまは、勇気を持って主を認めるなら、主もまた天の父の前であなたを「わたしの弟子だ」と認めてくださると語ります。弟子たちは、迫害の中でこのイエスさまの言葉を信じ、堂々と「イエスが主です」と告白しました。イエスさまの約束が、極限の状態にあるキリスト者たちに大きな勇気を与えたのです。
6 失敗さえも包み込む主の愛
イエスさまは「人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも、天におられるわたしの父の前で、その人を知らないと言います。」と語られました。私たちはここで自分自身の弱さを思わずにはいられません。しかし、一番弟子のペテロでさえ、恐怖に負けて「あんな人は知らない」と三度も主を否定しました。そのとき、主は彼を見捨てられたでしょうか。いいえ、主は悔い改めたペテロを赦し、「わたしの羊を飼いなさい」と再び使命を与えられました。主の励ましは、単に「強くあれ」と命じるだけではありません。「失敗しても、わたしの愛の中に戻ってきなさい。わたしがあなたを再び立たせる」という深い慰めが含まれているのです。
7 おわりに
この6つのメッセージは、後に来る大迫害時代のキリスト者たちを支える大きな柱となりました。現代を生きる私たちも、自分の力で立とうとするのではなく、主の圧倒的な愛と主権を信頼しましょう。神さまは、あなたが置かれたその場所で、必ず最善の導きを与えてくださいます。
(2026年3月22日 石原 俊一 師)

