恐れることはありません(マタイの福音書28章1~15節)
0 はじめに
主イエスの死は人々のうちに、様々な感情をもたらし、様々な反応を生み出しました。このマタイの福音書の二十八章には、四種類の人々が登場します。この人々の反応はそれぞれですが、彼らに共通する思いがありました。それは「恐れ」です。マタイは福音書の最後にこの「恐れ」について書き記しました。今日は番兵たち、女の弟子たち、その他の弟子たちの三者について考えてみましょう。
1 番兵たち
大きな地震がおこり、天の御使いが輝く姿で、番兵たちが守る墓に訪れます。その御使いを前にして、番兵たちは「その恐ろしさに震え上がり、死人のようになった(4)」のです。御使いの輝きがまぶしければまぶしいほど、人は自らの闇に気づき、恐れるのです。また、彼らは、次の瞬間、さらなる恐れに捕らえられます。それは、墓がもぬけの殻で、イエス様の遺体がなくなっていたからです。彼らの責任が問われる恐ろしい事態が生じていました。
2 女の弟子たち
御使いはまるで番兵たちなど目に入っていないかのように、主イエスの墓を訪れたマリアたちに「恐れてはいけません(5)」と語りました。彼女たちも恐れて、死人のようになったに違いありません。けれども、御使いは、彼女たちに「あなたがたは、恐れることはありません。十字架につけられたイエスを捜しているのは分かっています。ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。さあ、納められていた場所を見なさい。(5,6)」と語ります。御使いのことば通りであったので、彼女たちは、恐ろしくはあったが大いに喜んで、弟子たちのもとに急ぎます。そして、その途中、復活の主にお会いするのです。「すると見よ、イエスが「おはよう」と言って彼女たちの前に現われた(9)。」と記されています。彼女たちは近寄って御足を抱いてイエスを拝みました。
3 引きこもっていた弟子たち
墓に行った女の弟子たち以外は、特に男性の弟子たちはどこにいたのでしょうか。エルサレムの二階座敷に、戸を締め切り、鍵を掛けて引きこもっていたのです。人々の厳しい目、捕縛され、処刑されるのではという恐れ、何よりも、信じていたイエス様の十字架という重い現実を前に、なすすべを知りませんでした。しかし、そんな弟子たちをも、イエス様は、「わたしの兄弟たち(10)」と呼ばれます。復活の福音は、恐れという現実、絶望という重い石を取り除きます。墓の石は、主のよみがえりによって確かに取り除かれたのです。「恐れることはありません。・・・主はよみがえられたのです。」という言葉が、また、「わたしの兄弟たち」と語りかけてくださるその言葉が、困難に、立ち向かって行くことのできる確信を与えるのです。恐れるな。わたしはよみがえったのだからと主は言われるのです。
(2021年4月4日 木田 惠嗣 師)