キリストにとどまり、実を結ぶ ( ヨハネによる福音書15章1~10節)

0 はじめに

ヨハネによる福音書13章の初めに、イエス様は、この後、イエス様を見捨て裏切る弟子たちの足を洗い、終わりまで弟子たちに愛を表わされました。最後の晩餐の場面はここから始まっています。13章から17章はイエス様の死の前夜、祭司長やパリサイ派の人々によって捕らえられる直前に弟子達に語られたメッセージです。今まで共におられたイエス様が去られた後、弟子達が心に刻まなければならない大切な真理を語られます。それは、ぶどうの木のたとえを通してイエス様と弟子たちのつながりの必要性です。

1 イエス様はまことのぶどうの木

旧約聖書では、イスラエルの民をぶどうの木にたとえています。イザヤ書5:1~4には、神がイスラエルという良いぶどうの木を植えて、手を加え大切に育てたのに、酸いぶどうが出来てしまったという神の嘆きが記されています。イスラエルは、神様の語っておられる声に耳を傾けず、神に従わなかったからです。その事を前提に、ヨハネの福音書15章では、イスラエルとは対照的に良いぶどうの木としてのイエス様が描かれています、イエス様こそ、父なる神に従い、十字架にまで従われた真実な、偽りがない、まことのぶどうの木です。このイエス様の十字架の犠牲によって、枝である私達はつながり、命をいただいています。

2 父なる神の働き

このたとえは、イエス様はぶどうの木で、父なる神様はぶどうの木を刈り込む(新共同訳では手入れする)農夫だと語っています。(15:2)農夫は果実が立派においしく出来るように心を砕きます。リンゴ農家では、おいしいリンゴにするために雪の降る1月から剪定をします。そして実を付けると実すぐり(摘果)をし、10月上旬になると、サンふじというリンゴは太陽の光をふんだんに受けられるようにリンゴの実の回りの葉っぱを中心に葉摘みをします。リンゴの剪定は、リンゴの出来の7割がこの作業によって決まるという農家さんもいるほど大切にしています。剪定は枝を損なうのではなく、より豊かな実を実らせるために枝の状態をよく見てします。私達は、試練や苦しみを通して刈り込みをされます。しかし、これらのことを通して、余分な枝は取り去られて、更に多くの実を結ぶ枝とされていきます。

3 あなたがたは枝です

「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。」(15:5)このみことばは、イエス様と私達の関係とイエス様と教会の関係を言っています。イエス様というぶどうの木から離れてしまうと、私達は何も出来ない弱い者です。また、イエス様という木に複数の枝が共につながることによってぶどうの木を構成している教会の姿を見ることが出来ます。私達の交わりの中心にイエス様がおられるのです。

(2023年10月8日 木田 和代 師)

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