主が告げられたとおりに(創世記12章1~9節)
1 主のお言葉どおりに歩む信仰
アブラムには、主が告げられたとおりに出て行くことを困難にする三つの問題がありました。一つ目は、高齢の旅になるということです。アブラムは、当時75歳でした。未知の場所、神さまが示す場所、どのようなところか全く分からない場所に行くには抵抗があったと思います。二つ目の問題は、親族、父の家とのつながりを断ち切っての旅であったということです。75歳までテラ一族とともに生活してきました。そこには、家族に対する深い愛情があったと思います。三つ目の問題は、跡取りのがいないという問題を抱えた旅であったということです。アブラムは、ハランを出たとき、たくさんの財産をもっていました。しかし、子どもがいないということは、この財産を受け継ぐ跡取りがいないことを意味します。この問題は、現在と比較にならない程の大問題でした。神さまの導きは何の問題もないところにやってくるわけではありません。むしろ、アブラムのように問題だらけの中に神さまの導きがやってきます。しかしアブラムは主が告げられたとおりに出て行きました。これがアブラムの信仰です。
2 主のご計画を信頼する信仰
旅を続けたアブラムは、ついにカナンの地に入りました。まず、はじめに訪れたのはシュケムです。その場所でアブラム一行は、その地にはカナン人がいたということを知ります。アブラムは神さまが行けという命令どおりにその地に行きました。神さまはその場所でアブラムを「大いなる国民とする」といってくださいました。ところが、その地には、元々住んでいたカナン人がいました。アブラムは現地の人々にとってよそ者に過ぎなかったのです。さらに、神さまは、アブラムにこの地を与えるとはいいません。アブラムの子孫に与えると語られました。この御言葉は、アブラムにとっては受け取りがたかったでしょう。なぜなら、アブラムの跡取り問題は解決していなかったからです。アブラム75歳で子どもが一人もいなかったのです。しかし、アブラムは主の言葉を信じました。アブラムは、神さまの前にぬかずき、へりくだり神さまのお言葉をいただく場所である祭壇を築きました。問題だらけのただ中で神さまの御言葉を受け取ったのです。アブラムは、シュケムからベテルとアイという二つの町の間に行きそこでも祭壇を築きます。アブラムは一つの場所に定住しませんでした。人のいないところに天幕をはり、すでに住んでいるカナン人と争うことなく生活しました。寄留者の生活を続け、そのところどころで祭壇を築きました。これがアブラムの信仰です。
3 祝福の存在になる信仰
神さまは、アブラムの子孫を大いなる国民とすると語ります。このことは2つの意味で成就しました。一つは、アブラムの子孫であるユダヤ民族が国を築きました。確かにアブラムは大いなる国民となりました。二つ目は、アブラムの信仰の子孫がキリスト者として神の国の民となりました。アブラムの子孫からイエス・キリストが生まれます。そして、イエス・キリストを信じる者が皆神の国に入れられます。キリスト者にとってもアブラムは大いなる国民の父となったのです。あなたの名を大いなるものとする。という御言葉も成就しました。今、世界中にアブラムの名が知られています。主が告げられたとおり歩む者の祝福は大きいのです。神さまは、アブラハムに対して、「あなたは祝福となりなさい」と語られます。人は本来祝福の存在になることはできません。しかし、アブラムが謙遜にへりくだって主がつげられたとおり歩むとき、祝福の基である神さまがアブラムとともに歩んでくださいます。すると、アブラムが祝福する者を、アブラムとともにいてくださる神さまが祝福します。アブラムを呪うものを、アブラムとともにいてくださる神さまが呪います。アブラムが地のすべての部族を祝福するとき、アブラハムとともにいてくださる神さまがすべての部族を祝福してくださいます。「祝福となりなさい」 ということは、祝福の基である神さまとともに歩みなさいということなのです。わたしたちも祝福の基である神さまがともに歩んでくださっています。ですから、アブラムと同じように「祝福」となることができます。私たちは、どうしても自分の小ささや信仰の弱さを見つめてしまいます。問題だらけの自分をみるとき、がっかりしてしまいます。しかし、祝福を与えてくださるのは神さまです。私たちが人に対して祝福するとき、神さまはその人に祝福を与えてくださることを信じましょう。
(2024年3月17日 石原 俊一 兄)