使徒信条講解15:聖なる公同の教会( マタイ16:15~18)

1 はじめに

使徒信条の「聖なる公同の教会」という一節から、教会についてお話をしましょう。多くの方は、教会と言うと、尖塔の先に十字架が掲げられた建物を連想します。ヨーロッパの各地には、美しい立派な教会堂が建てられています。しかし、聖書の中で、「教会」と訳されたギリシャ語は、建物ではなく、神の救いを経験した信仰者の群れを指しています。最初に読んでいただいた聖書の箇所は、このみ言葉をもとに、ペテロの権威を継承していると主張するカトリック教会と、イエス様は、ペテロの上に教会を建てると言っているのではなく、その信仰告白の上に教会を建てると仰っているのだと主張するプロテスタント教会の間に、論争が繰り広げられて来たた箇所でもあります。確かに、ペテロは、教会の柱であり、イエス様の12人の弟子の筆頭でもありましたが、そのペテロと同じ信仰を告白する人々に、イエス様は天国の鍵を託してくださったという事でしょう。それは、実に厳粛な使命が、教会に託されているという事でもあります。

2 「聖なる教会」

教会が聖であるという事は、神様によって選ばれ、区別されているということを意味しています。「聖」という言葉は、一般の用途ではなく、神のために用いるため、区別され、選ばれたものを指す言葉だからです。私たちが聖なる公同の教会を信じるという事は、①教会の主権者は神であることを信じるという事。一人一人をこの世から召し出し、イエス・キリスト様に結び付けてくださった、教会の主である神を信じるという事です。教会がこの世の集まりと、決定的に違うことは、この点にあります。単なる同好の志が集まったというのではないのです。あるいは、自然に日本に生まれた、木田家に生まれたというの事でもないのです。教会のメンバーは、神様が召された一人一人であるという事です。②教会の使命は宣教にあるということを信じることです。教会は何のためにこの世から召し出されたのでしょうか。キリスト様が私たちの罪の身代わりに十字架で死んで、三日目によみがえってくださり、今も、教会のただ中に臨在してくださっていることを証しするために召しだされたのです。この使命を忘れては、教会ではありえません。教会が聖であるという事は、③教会の歩む道筋を表しています。コリント人への手紙第一を開きますと、手紙の冒頭で、パウロは、コリントの教会に対して、「コリントにある神の教会へ。すなわち、いたるところで私たちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人々とともに、キリスト・イエスにあって聖なるものとされ、聖徒として召された方々へ。(Ⅰコリント1:2)」と呼び掛けています。パウロが、コリント教会に手紙を書いた理由は、素晴らしい教会だったからではなく、むしろ、様々な問題が山積みで、分裂分派はある、礼拝の混乱はある、異邦人の中にも見られないような不品行がある教会だったからです。けれども、パウロは、「神の教会」「聖なるものとされ、聖徒として召された方々」と彼らに呼び掛けるのです。教会に集められ、召された人々は、模範的だから、優れているから、欠けがないから選ばれたのではありません。問題があり、悩みがあり、困難の中に苦しんではいるけれども、そんな私たちを愛して、神様は、ひとり子イエス様を世に遣わし、十字架の死と復活によって、私たちを罪の奴隷から、サタンの思うがままの生き方から贖いだしてくださり、キリストに似た者と変えてくださろうと、選んでくださったのです。罪から救われ、キリストに似た者とされていく道筋、プロセスが「聖」という言葉で表されているのです。ある方が、教会は、「ただいま工事中」というプラカードをぶら下げて歩いている人の群れだと言いましたが、その通りだと思います。

3 公同の教会

「公同」という耳慣れない言葉が使われていますが、もともとは、カトリックCatholicということばで、「普遍的・一般的」という意味です。聖書の中に、「公同の教会」という言葉はありません。しかし、教会の歴史の中では、紀元110年にローマで殉教したアンテオケのイグナティオスという教父が、その手紙の中に使ったのが最も古いと言われています。当時、教会は、エルサレムからスタートし、小アジアから、ギリシャ、ローマへと広がり、それぞれの地域に牧師が立てられ、互いに交流を保ちながら、独自の教会形成がなされていました。そのような時代に、すべての教会をつなぐ組織はありませんでしたが、キリストを頭とするキリストのからだの一部分であるという意識がそれぞれの地域教会にはあり、それを「公同の教会」という言葉で表現しました。その「公同の教会」という言葉が、使徒信条の中にも入っているのです。公同の教会を信じるという事は、どういう事でしょうか。①第一に、キリスト信仰は一つという事です。。キリスト教会に様々の教派や教団はありますが、その信じる信仰の内容は、驚くべきことに、ひとつです。その一つの例証がこの使徒信条です。使徒信条を受け入れる教会は、カトリック、聖公会、プロテスタントと、西方教会の流れを汲む教会すべてがこの信条を受け入れています。また、東方教会は、教会会議で認められた信条としてこの使徒信条を認めてはいませんが、反対しているわけではなく、東西教会が共通に告白するニケヤ・コンスタンチノープル信条の内容は、使徒信条をもうすこし詳述したものなのです。②第二に、公同の教会を信じるという事は、私たちをカルト的信仰から守るということです。多くのカルトと呼ばれる宗教は、自分たちだけが真理を持っており、他はみな偽物であると独善的です。しかし、使徒信条の中で、「聖なる公同の教会を信ず」と告白する教会は、自分たち以外にも、天地創造の全能の神を信じ、十字架で死に三日目に復活された主イエス・キリストを信じ、聖霊なる神を信じている教会が、過去にも存在したし、現在も、世界中に存在することを認めるからです。また、このことは、私たちが、東日本大震災において改めて経験した大きな慰めでもありました。③超教派の交わりの大切さを教える。公同の教会を信じるのであれば、教団、教派が異なり、それぞれの教会文化は違っていても、エペソ4:5に「主はひとり、信仰は一つ、バプテスマは一つです。」と互いに信じて、交わり、協力し合って生きて行くことを表明している事でもあるのです。自分自身の所属する教会を愛することは、もちろんですが、他教派の教会をも尊重し、協力しながら、ともにイエス・キリスト様を証していくことが、公同の教会を信じるという事でもあるのです。

イエス様を信じた時、代々の聖徒たち、世界中のクリスチャンたちと、同じキリストのからだの一員とされたという事のすばらしさを改めて確認しましょう。

(2024年4月28日 木田 惠嗣 師)

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です