イエスさまの後ろに(マタイの福音書4章18節~5章1節a)

1 イエスさまの愛のまなざし

ガラリヤ湖のほとりを歩いていたイエスさまは、二人の兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレをご覧になりました「ご覧になった」という言葉の原語には、「じっとご覧になる」、「深いまなざしでご覧になるという」という意味があります。イエスさまのまなざしは、深い愛のまなざしです。イエス様は、ペテロやアンデレの問題を分かっていました。せっかくバプテスマのヨハネにイエスさまを紹介されたのに、結局自分の仕事に戻ってしまった2人でした。それでも、イエスさまのまなざしは、変わりません。そして、このイエスさまの愛のまなざしが2人の心を動かします。

2 さあ、私の後ろに

イエスさまは、ペテロとアンデレに「わたしについて来なさい」と声をかけました。イエスさまの言葉を直訳すると、「さあ、わたしの後ろに」となります。イエスさまが、ペテロとアンデレに、「さあ、わたしの後ろに」と声をかけ、歩き始めたとき、2人が、網を捨ててイエスの後ろについて行きました。

3 あなたをつくりましょう

イエスさまは、続けて、人間をとる漁師にしてあげよう。と語ってくださいました。当時の人々は、イエスさまの言葉からエレミヤ書16章16~17節を想起したでしょう。漁夫は素人には見えないところにある獲物を見つけて捕まえます。神さまがつかわす漁夫は、この世に潜む悪者を見つけ出すことができるという言葉です。人間をとる漁師にしてあげようの「してあげる」という言葉は、「つくる」という意味で使われる言葉です。を直訳すると、「あなたを人間の漁師につくリましょう」となります。

4 4人の応答

イエスさまの言葉に応答して、彼らはすぐ、網を捨ててイエスに従いました。 網は彼らにとって大切な商売道具です。彼らはこの網で生活してきました。これを手放してしまったらどうなってしまうだろうという不安は大きかったと思います。しかし、イエスさまのまなざしと声かけが、自分の存在を支えてきた網を捨てる決心を与えたました。
ヨハネとヤコブは、すぐに、舟と父親を残してイエスに従いました。ヨハネとヤコブが捨てたものは、舟と父親でした。ヨハネとヤコブにとって、舟と父親が彼らの存在を支える大切なものでした。しかし、ヨハネとヤコブはこれらを捨てました。ヨハネとヤコブも自分の生活を支えていた大切なものや人を捨てたのです。

5 山登を登るイエスさまの後ろについていく信仰

イエスさまの活躍を見て、大勢の群衆が全イスラエルからやってきてイエス様に従いました。ところが、イエスさまはその群衆を見て、山に登られました。群衆の中にはかわきをもってイエスさまを求める人がいました。しかし、そうでない人々もいました。やがて、この群衆は、「イエスさまを十字架につけよ」と叫ぶ者に変わります。群衆の中にいる人々は様々で、しかも、周りに影響されやすいのです。ですから、イエスさまは、群衆を見て、山に登られました。すると、多くの群衆は山の下でイエスさまが下りてくるのを待ちました。しかし、山に登られたイエスさまの後ろについてくる少数の者たちがいました。群衆の中で、心からイエスさまを信じた者は、山に登ってでもイエスさまの後ろについていったのです。彼らは、イエスさまの弟子となり、素晴らしいイエスさまの教えである山上の説教を聞くことができました。

6 今を生きる私たちへのメッセージ

イエスさまは、現代の私たちも愛のまなざしで見てくださいます。そして、私たちに、「さあ、わたしの後ろに」「私に従ってきなさい」と言ってくださいます。私たちはイエスさまの後ろについて行きさえすれば大丈夫です。どんなにダメなものでも、どんなに分からない者です。イエスさまの後ろについて行きさえすれば、イエスさまが、私たちの特性を生かして、神さまのために働く者に造り替えてくださいます。イエスさまの後ろについていくことは、自分の大切なものを捨てること、手放すことでもあります。でも、大丈夫です。私たちは、ただ、イエスさまの後ろについて行けば、私たちを縛るものから解放されます。最初は、群衆の中の一人のような信仰かも知れません。けれども、イエスさまは、一人で直接イエスさまに後ろについて者を求めておられます。例え、イエスさまがけわしい山道を歩んでも、その後ろに着いてくる者を待っていてくださいます。
信仰とは、イエスさまの後ろについていくことです。私たちは、イエスさまを信じて、ただ、イエスさまの後ろについていきたいと思います。

(2024年8月25日 石原 俊一 師)

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