私たちは地の塩(マタイの福音書5章13節)
1 あなた方は地の塩です。
イエスさまは、「あなたがたは地の塩です。」と語られました。イエスさまは、私たちの能力を見て語っているのではありません。努力を求めているわけではありません。イエスさまは、「イエスさまを信じるあなた方こそ地の塩だよ。」と語ってくださいます。
2 地の塩の姿とは
(1) なくてはならない存在
地の塩の特徴の1番目は、「この世でなくてはならない存在」であるということです。塩は人間にとってなくてはならない物です。私たちキリスト者がいなければ、人々はキリスト教を知ることができません。私たちキリスト者がいなければ、この世の人々は、キリストにあっていのちをいただくことができません。地の塩をといわれるキリスト者は、イエスさまを信じてそこにいるだけで、「この世でなくてはならない存在」です。
(2) この世の腐敗を防ぐ存在
地の塩の特徴の2番目は、「この世の腐敗を防ぐ存在」であるということです。塩は食べ物の腐敗を防ぎ、食べ物を保存するという大切な役割をもっています。キリスト者は、そこに存在するだけでこの世の腐敗を防ぐ存在です。なぜ、この世は腐敗するのでしょうか。それは、罪ある人間は誤りを犯しやすく、その誤りから立ち返ることが出来ないからです。しかし、キリスト者は自分の罪を認めます。神さまに立ち返ります。絶えず、神さまに立ち返るキリスト者はこの世で腐敗していくことがありません。しかも、この世の腐敗も防ぐことができるのです。
(3) 相手を生かしていく存在
地の塩の特徴の3番目は、「相手を生かしていく存在」であるということです。塩の大きな特徴は味付けです。しかも、塩による味付けは、甘いものを一層甘くし、辛いものを一層辛くするという性質があります。キリスト者も同じです。キリストにあって生きる者は、その人にかかわる人の個性を生かすことが出来ます。この世の人々は、自分を生かしたいということを強く願う傾向があります。しかし、キリスト者はもうすでに、自分が罪人であり、ダメな存在であることを認めています。それと同時に、イエスさまがこんな私の中にいてくださり、私を生かしてくださることを体験しています。ですから、自分で自分を生かす必要がありません。自分以外の人を生かすようになります。神さまの前にへりくだっていると、相手の良い面がみえてきます。相手の良い面に感謝することができます。自然に、相手の良い面が生かすことができるのです。
す。
(4) どんな場所でもキリスト者らしさを失わない存在
地の塩の特徴の4番目は、「どんな場所でもキリスト者らしさを失わない存在」であるということです。塩は食品の中に溶け込みます。溶けて見えなくなって、もっている味をだします。しかし、例え何に溶けても塩以外のものになりません。何の味つけをしても、塩は塩で有続け、塩の役割を果たします。このことは、キリスト者はどこにいっても、キリスト者らしさを失うことはないということを示しています。なぜでしょう。それは、キリスト者の中に住んでおられるイエスさまは、昨日もきょうもいつまでも変わらないお方だからです。イエスさまを信じ、イエスさまに寄りすがりながら生きていれば、その人からイエスさまの姿が現れます。イエスさまの愛とあわれみは不変です。ですから、キリスト者から表れる愛とあわれみも不変です。どこへいっても、どんな場所でもキリスト者らしさを失いません。
3 塩気を失ったキリスト者
「塩気をなくした塩」とは、塩をして売られ、一見塩のように見えるけれども、塩以外の不純物ばかりで肝心の塩が含まれていない塩ということです。古代の中東における「塩」とは、今日の精製された塩ではなく、死海や他の自然の塩源から採取されたものでした。 石膏や他の鉱物など不純物を含んでいます。ですから、イエスさまがおられた頃は、「塩気をなくした塩」というのがあったのです。
塩気を失ったキリスト者とは、キリストを信じているように見えて、心の中心には自分があり、キリストを閉め出している人です。塩をとしての働きは、すべてキリスト者の内に住むにキリストのはたらきです。ですから、その人のうちにキリストがいなければ、当然、これまで見てきたすばらしい塩の働きができません。何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけになってしまうのです。
(2024年12月29日 石原 俊一 師)