わたしにあるもの、イエス・キリストをあげよう (使徒 3章 1節 〜 10節)
聖書は、神の御子であるイエス様が、“私たちと共にいてくださる”、と約束しています。こうしてイエス様を喜んで迎え入れる人は、イエス様と一緒に人生を過ごす人です。このように私たちは、“自分にあるもの”、の何を大切にするかでその人の人生は決まってきます。本日の聖書のみ言葉、「わたしにあるものイエスキリストをあげよう」から、私たちは、自分にあるもの、を深めてまいりたい、と思います。
第一に、『わたしにあるものイエスキリストをあげよう』という言葉からイエス様の力は、私たちの弱さ、貧しさに向かわれるのです。
ペテロは、生まれつき足の不自由な男に”わたしにあるもの…イエス・キリストをあげよう!!”と言い聞かせ、イエス様に注目させます。すると、その言葉どおりに男の足は、癒されるのです。ここで大切なことは、ペテロの” わたしにあるもの…イエスキリスト ”という御名です。この” わたしにあるもの ”とは、神の御子であるイエス様が、ペテロの心のうちに住まわれる絶対的存在、つまり、復活のイエス様なのです。この復活なさったイエス様のご登場は、今の私たちも大事です。なぜなら、復活なさったイエス様は、すでに闇の力に勝利し圧倒され、今も罪の支配に動じないお方だからです。さらに聖書は復活のイエス様が、あなたの中に住まわれる、とみなしくださるのです。これは、私たちにとって心強い味方です。ですから、ペテロの”わたしにあるもの、イエスキリストをあげよう ”という言葉は、私を満たすイエス様の復活の力は、あなたに向かいます、という意味になるのです。このようにイエス様の力は、男の心の弱さ、問題に向かわれるのです。この言葉は、私たちの自分に言葉、祈りにすることができます。私たちは、コロナ感染の問題のために、“わたしにあるもの、イエスキリストをあげよう ”と祈ることで世界、日本のためにとりなすことができるのです。
第二に、『わたしにあるものイエスキリストをあげよう』という言葉から、イエス様は、私たちの中に住まわれるのです。
イエス様が、“私たちの中に住まわれる”とは、神であるお方が、私たちのいるところにまで降りて来られる、つまり、これが救いなのです。救いとは、私たちが本来、そこにいるべきところではないところ(暗闇の支配)から、いるべきところ(神のご支配)に移されるのです。足の不自由な男は、この救いを受けます。なぜなら、彼は癒された結果、美しの門にいるのではなくそこから、神殿の中に入っていったからです、つまりキリスト者になるのです(使3:25アブラハム契約)。これは今の私たちも同じです。今ここにいる私たちも福音を信じたことによって、暗闇からイエス様の復活のいのちへ移されているのです。ですから、ペテロの”わたしにあるもの、イエスキリストをあげよう ”という言葉からイエス様は、その人の中に住まわれるのです。私たちの心が広がり、大きな喜びとなります。このように、今私たちは、神様との交わりから “わたしにあるもの 主イエス様” が生み出され、さらに、“わたしにあるもの”を他の人に生み出していくことができます。
(2021年1月31日 原田 真満 師)