「嘆きの只中で出会う主」(哀歌5章20〜22節)

1 心を注ぎ出す祈り

哀歌には、エルサレム崩壊という歴史的な負の記憶が記されています。そこには、うめき、苦しみ、孤独、苦しみにはらわたがかき回され、涙を流し、力抜け落ち、唖然としている、そのリアリティが生々しく描かれています。一度3章で希望も記されますが、その後すぐに嘆きに戻り、希望が一貫しません。あまりに神様のみこころを損ない、神様から「断ち切られた」と感じ、罪を重ね続けてきたことを深く自覚する者が歌っているのです。もし私たちが、自分の状況が自業自得だと思うなら、この苦しみは自業自得で仕方ないのだから、もし、自分があれやこれや言えば、誰かに後ろ指を指されそうな気がして、黙り込むのではないでしょうか。けれども、哀歌記者は、自分たちの自業自得の罪を自覚した上で、神様に心の内側を注ぎ出して祈っています。

自業自得という負い目を負いながら、しかし、とてもじゃないが負い切れない。怒りを燃やしておられるけれど、ここから自分たちを救ってくださるのも、ただ主お一人だけ。回復の約束を与えてくださっている神様の憐れみにすがりつき、心の内を注ぎ出しているのです。たとえ今が、神様の永遠の怒りの刑罰の中にあるように思えても、神様の約束の言葉が信じられないような状況でも、この神様にのみ信頼する。それゆえ哀歌記者は、安易に他の慰めを求めず、ただ真の慰めを与えてくださる神様を求めて、それが与えられるまで、神様に嘆きを吐露しているのです。

2 十字架のイエス様へと

20節「なぜ、いつまでも私たちをお忘れになるのですか。 私たちを長い間、捨てておかれるのですか。」ここで使われている言葉は、詩篇22編1節の言葉と非常によく似ていますが、この言葉は、まさに私たちの目を十字架の上のイエス様に向けさせます。「わが神 わが神 どうして私をお見捨てになったのですか。」本来、私たちに注がれるべき神様の怒りを、この十字架のイエス様が全て受けてくださったのです。新約の時代を生きている恵みとは、こういうことでしょう。私たちは、自分たちが神様の永遠の刑罰の中にいるように感じる時、歴史上、目に見えてはっきりと、その刑罰と怒りを身代わりに受けてくださったイエス様を思い起こすことができるのです。イエス様の十字架ほど明確な救いのしるしが他にあるでしょうか。この十字架のイエス様がおられるから、私たちはどんなに嘆かわしい自分の状況があったとしても、神様が私たちに帰る道を備えておられること、和解をしようと腕を広げておられることをはっきりと知ることができます。

このイエス様のゆえに、私たち人間の、恥ずかしい吐露を、遮ることなく聞いてくださっている神様に出会うことができます。暗い谷間で、情けない、恥ずかしい自分がさらけ出されたところで出会う、まことの慰め主が、確かにおられるのです

(2022年4月24日 木田 友子 姉)

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