神へのいけにえ(テモテへの手紙 第一 2章1節~7節

0 はじめに

テモテは、使徒パウロが開拓宣教をしたエペソ教会を、パウロの後を継いで牧会する若い牧者です。エペソ教会には、偽りの教えに心を寄せる人がいました。中には、「健全な良心を捨てて、信仰の破船」(1:19)にあった人たちもいたと記されています。このような霊的な戦い、揺さぶりの渦中にあるテモテに、パウロが第一に命じたこと、それは「すべての人のために……願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい。」(2:1)ということでした。私たちは、「すべての人のために」「願い、祈り、とりなし、感謝をささげる」ということを、本当に受け入れているでしょうか。

1 神に受け入れられる、いけにえとしての祈り(v.1-3)

なぜすべての人のために祈るのか、その目的は、「私たちがいつも敬虔で品位を保つため」(2:2)です。すなわち、神を恐れる心と、その心から生まれる人のあり方です。私たちが祈ることに困難を覚えるあの人この人のためにとりなして祈る時、様々な感情が湧き出てくることでしょう。このような感情は、その人たちのために祈らなければ出てくることのないもので、蓋をして見ないふりをしておける自分の姿です。しかし私たちは、偽りなく神様の前に生きることが求められています。荒ぶる自分の感情でさえも神様の御前に注ぎ出し、ありのままの自分が取り扱いを受け、偽りなく生きる、パウロは私たちをそういう敬虔に導くために、すべての人のために祈りなさいと勧めているのです。

そして3節。「そのような祈りは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることです。」「喜ばれる」という言葉は、「神様に受け入れられる」ということを指します。すなわち、旧約聖書で、神様に受け入れられるいけにえをささげる時に用いられる言葉です。いけにえとは、旧約聖書において、神様に近づき、交わりを持つためにささげられた犠牲です。しかし、私たちの祈りが神様に喜ばれ、受け入れられるいけにえ・犠牲であるとは、どういうことなのでしょうか。

2 神に受け入れられた、いけにえであるイエス(v.5-7)

神様は「すべての人」が救われることを望んでおられます。そしてその願いを成し遂げるために、キリスト・イエスはご自分を犠牲・いけにえとしてささげました。人類史上唯一、真に人がきよめられることを可能にした犠牲・いけにえはイエスさまだけです。救いは、この神に受け入れられた、いけにえであるイエス様を通らなければ、もたらされません。それゆえ、私たちは、すべての人のために、あの人、この人が救われるために、それを可能にするいけにえであるイエス様を通して、神様に祈る必要があるのです。もちろん、私たちが様々な感情を抱きながらも、その人のために祈り続けるなら、私たちの行動もまた、その人のために割かれる部分があるでしょうから、ある意味で祈ること自体が私たちの心と体の犠牲であると言えます。しかし、最も重要なことは、私たちの祈りは、すべての人が救われるという神様の願いを成就するために、ご自分を犠牲・いけにえとして十字架の上で血を流し、私たちに救いへの道を開いてくださった「私たちの救い主、イエス・キリストのお名前によって」ささげられているということです。

私たちも、「すべての人」の内の誰かに遣わされています。祈りに伴う感情もすべて、十字架のイエス様に託して、神様にお伝えし、「すべての人」の救いを祈りましょう。

(2022年6月26日 木田友子 姉)

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