火は絶えず燃え続けさせなければならない(レビ記6章8-13節) 

1 「ささげる」礼拝とその恵み

レビ記に記される旧約時代の礼拝の中心は「ささげ物」でした。礼拝の本質は「ささげる」ことだったのです。しかし、私たちは礼拝において、どちらかといえば「何を受け取ったか」を先に考えがちです。それも大切ですが、同時に私たちは「何をどれだけささげられたか」も考える必要があります。特にレビ記に記される「全焼のささげ物」は、すべて焼き尽くすことを通して完全な献身を表すものでした。この姿勢こそ、私たちに求められる礼拝の姿勢です。
しかしそれは、ただ自分や家族を犠牲にするような献身ではなく、神のものとされた事実を思い起こす恵みの経験です。レビ記はそもそも、エジプトから救い出された神の民に与えられた規定でした。彼らは家畜や穀物をささげることを通して、そのすべてが神から与えられたものであることを思い出し、神の養いと導きに信頼することを学び続けたのです。私たちが主の日の礼拝で「ささげる」ことを選び取る時も同じです。神様のために時間も体力もお金も取り分けて「完全な献身」を表すとき、私たちも神のものとされた恵みの経験を与えられていくのです。

2 その火を絶やさない生活

さらに私たちは、そのような姿勢を日常生活でも保つことが願われています。「全焼のささげ物」の特徴は、祭壇の火を燃え続けさせる必要があったことです(8、12、13節)。この祭壇はいつも宿営の真ん中に置かれ(民数記2章2節)、民は絶えず、この火の煙と香りと共に日常の働きへと送り出されていました。つまり、礼拝は生活の中心に据えられ、日常的で連続的なものであるべきだったのです。私たちも、主の日の礼拝から途切れるような平日を歩むのではなく、礼拝の姿勢を維持しながら「ささげる」生活を送ることが求められています。それは決して世捨て人のように生きることではなく、むしろ、神様が与えてくださった仕事や家庭、人間関係を、神様にささげるように精一杯誠実に生きることです。そのように生きる時、私たちの生活全体が礼拝となり、「火を絶えず燃やし続ける」生活となるのです。

3 ともに住んでくださる神様

ただし、私たちは日常と信仰が切り離されてしまう弱さを抱えています。自分の力では本当の意味で「ささげる」生活を維持できません。しかしそんな私たちのために、神様はいつもともにいてくださいます。レビ記6章8-13節で強調されている「火」は、神様の臨在を象徴します。火を絶やさない生活とは、神様がいつも共にいてくださっていることを覚え続ける生活です。私たちも、自分たちの精一杯のささげものを神様が受け止め、共にいてくださることを覚え続けてあゆむのです。しかも、ヘブル人への手紙では、イエス様ご自身が大祭司であると語られています。私たちのためにイエス様が「火」を絶やさず燃やし続け、共にいてくださっているのです。私たちが「ささげる」ことに躓き、繰り返し自分自身の弱さや罪の現実に出会う時にも、このイエス様を見つめながら、繰り返し赦され、「ささげる」生活へと送り出されていきたいと思います。
(2022年11月6日 永井 創世 師)

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