私の望み キリスト(ルカの福音書2章28節~32節)

1 待ち望むということ

教会では、クリスマスまでの約一ヶ月の期間を「アドベント」と呼びます。「アドベント」には「到来する」という意味があり、そこから日本語では「待降節」と呼ばれ、その意味は「イエス・キリストの降誕を待つ」という意味が込められています。この期間を、師走の忙しさの中にあっても、神の御子の到来の出来事に思いをはせて、救いの到来を待ち望みつつ過ごすのです。
神の御子が来る。その到来の時を待つ。この「来ること」と「待つこと」を結びつけているのが「希望」ということなのです。その一方で光を飲み込んでいく闇の力の深さ、大きさ、恐ろしさを実感させらます。
旧約聖書の詩篇39篇7節があります。「主よ、今、私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなたです」。こう呼びかけることのできるお方、私たちを愛し、この世界を生かし、今日も良きみこころのうちに治めておられる生ける神を待ち望む。これが聖書の語る希望です。

2 待ち望む人、シメオン

福音書が記すクリスマスの出来事にも「希望する人々」が数多く登場してきます。その一人が、イエス・キリスト誕生の八日後の出来事を記すルカの福音書2章25節に登場する老祭司シメオンです。ここに信じて待った人の姿があります。シメオンが生きた時代はユダヤの激動の時代でした。けれども彼はその苦難の日々、激動の日々を生きた、いや生かされたのです。「主のキリストを見るまでは決して死を見ることはない」という言葉は、その時までは死ねないということです。シメオンにとって救い主を待ち望むことは彼の使命であり、彼の人生そのものだったのです。そしてついに今やその時が到来した。年老いた目で、かすみつつある目で、この地上の罪と悲惨の現実を見尽くしてきた目で、表面的なことに目を奪われることのない透徹した目で、この「私の目で」、彼は御救いを「見た」のです。まだひとりで何もできないような小さく弱い赤ん坊の姿の中に、しかし彼は神の救いの約束の実現を見た。まさにこの幼子が「主のキリストだ」と信じたのです。

3  私の望み、キリスト

さらにもう一つ、この朝私たちが心に留めたい御言葉が、ローマ書15章12節、13節です。ダビデの子孫としてお生まれくださった神の御子イエス・キリストです。まさしく御子イエス・キリストこそが私たちの望みの神であられるのです。イスラエルの民はこのイザヤの預言の成就を七百年という長い時間待ち続けました。その間のユダヤの歴史は祖国の侵略、抵抗、独立戦争、そして敗北、属国への道を辿るという苦難を味わう激動の時代でした。それでもその時の間、人々は救い主を待ち続けた。諦めることをしなかったのです。
しかしそれ以上に私たちが覚えたいのは、罪深い私たちの繰り返す罪にもかかわらず、私たちを見捨てず、私たちを諦めず、何としてもあなたを救うと決意し、それを実行してくださった。まさに神ご自身が忍耐の神であられ、そして希望を捨てない真実な神様だということです。私たちが今年も御子イエス・キリストの御降誕を待ち望んで生きることができるのは、御子を賜るほどに私たちを愛してくださる父なる神が、私たちへの望みを捨てずに、私たちのうちに望みの神を待ち望む信仰を与えていてくださるからなのです。
ナチ・ドイツの時代に生きた詩人ヨッヘン・クレッパーの歌った『朝の歌』に次の一節があります。「今日、この日がどんなに暗くても、御言葉はなおも必ず光輝く」。この希望に生きる私たちでありたい。どんなに世界が暗く、どんなに先が見えず、どんなに闇の力が圧倒的に見えても、まだ夜の闇の中にも朝明けが近いように、希望がある。絶望を破る希望の光が到来する。それがクリスマスにおいて起こった出来事、神の御子イエス・キリストの訪れなのです。光の到来を待ち望みつつクリスマスに向かう日々を、「主よ、今、私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなたです」と歌い、告白しながら進んでまいりましょう。

(2022年12月11日 朝岡 勝 師)

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