クリスマスの意味(ヨハネの福音書1章1節~5節)

1 この世界をつくられたイエスさま

ヨハネの福音書では、何も創られていない、まだ、何もない、そのときに、「ことば」(λογος)があったといいます。日本で最初に聖書を訳したギュツラフ訳ヨハネの福音書は「ことば」を人格的存在として「カシコイモノ」と訳します。パウロは「ことば」という言葉をつかって、人格的な存在、受肉前のイエス・キリストのことを書いているのです。初めに、存在したのは父なる神さまだけではありません。神の子イエスさまと父なる神さまはおられました。

イエスさまは、すべての世界を創られた神の子であられるのに、ご自分を空しくして、人間になられました。ことばとして、存在し、圧倒的な力をもったイエスさまが人間になられたのは何のためでしょう。罪に汚れ、滅びに至るしかない人間の罪の贖いとして死なれるためです。人間が受けなければならない刑罰をイエスさまが私たちの代わりに受けてくださるためにです。これがクリスマスの意味です。

2 いのちの根源であるイエスさま

イエスさまこそ一切のいのちの根源です。神さまは、創世記2章9節で、園の中央にいのちの木を、また善悪の知識の木を生えさせました。人が、このいのちの木を食べるということはいのちの根源であるイエスさまと人がつながり続けるということでした。そして、人が善悪の木から食べるということは、人がいのちの源であるイエスさまとのつながりを拒絶するということでした。アダムとエバはこの善悪の知識の木から食べることで自ら、いのちの源であるイエスさまとの関係を断ち切ってしまいました。これがわたしたちの罪の根源です。私たちは、自分の思い通りに生きようとする者です自分を正しいとする者です。自分と他と比較し自分がすぐれていると思うときは優越感に浸り、自分が劣っていると思うときは劣等感に浸ります。それはすべて、アダムの裔である私たちがいのちの根源であるイエスさまを拒絶してしまったからです。

人となったイエスさまは、イエスさまは私の身代わりとして、十字架にかかって死んでくださいました。イエスさまを信じる私たちは、再びいのちを得ることができるようにしてくださいました。私たちにいのちをえさせてくださる。イエスさま地上に生まれてくださいました。それがクリスマスの意味です。

3 闇に打ち勝つイエスさま

イエスさまのいのちの光はいまもわたしたちの上に注がれています。闇は光が注がれたその時に、光に負けてしまいました。イエスさまのいのちの光がそれほどの力をもつのです。
この世界には依然として闇があります。それは、人間がイエスさまの光を受けない場所を自分達から創り出しているからです。それは、アダムとエバが罪を犯したときに主の御顔をさけたのと同じです。イエスさまに知られたくない場所、見せなくない場所、露わにされたくない場所を自ら創り出し、自ら闇の中に入っていくのです。

しかし、私たちが自分の罪を告白するなら、私たちがイエスさまの光の中に出ていくならば、神さまはその罪を赦し、わたし私たちをすべての不義から清めてくださいます。私たちが自分の罪を告白するなら、闇に打ち勝つことができます。それは、イエスさまがすでに、闇に打ち勝っておられるからです。闇の力に勝利してくださるイエスさまがお生まれになりました。これも大切なクリスマスの意味です。

(2022年12月25日 石原俊一 兄)

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