キリストを「かしら」として (コロサイ人の手紙2章8節~11節)

1 だれかの捕らわれの身にならないように

パウロは厳しい口調で、空しいだましごとの哲学を批判します。空しいだましごとの哲学とは、キリスト教の異端思想です。異端宗教や思想はキリストの神性を否定しました。キリスト、イエスさまが神の子ではない。だから、イエス以外のものを信じなさいと主張しました。パウロは、真の神、そして神の子キリスト以外のものを信じることがどれだけ大きな問題を生むかを分かっていました。ですから、パウロは、神の子キリストを信じることがどれだけ幸いな歩みであるかを主張したのです。

2 キリストに宿る完全

なぜ、キリストを神の子と信じることが大切なのでしょうか。それは、キリストのうちにこそ神の満ち満ちた御性質が宿っているからです。イエスさまの内に全てがある、イエスさまがおられれば十分だということです。異端思想では、キリスト以外のものが必要だといいます。
神さまにすべての知恵、義、聖があるように、神の子キリストには、知恵、義、聖、そして、贖いがあります。神さまが恵みとまことに満ちているように、神の子イエスさまの内にも恵みとまことがあるということです。

3 キリストにあって満たされる

そして、パウロは、「あなたがたは、キリストにあって満たされているのです。」(2章10節)といいます。私たちが、イエスさまを信じるということは、イエスさまの御支配の中に入れられるということです。私たちがイエスさまに求めれば、イエスさまはいつでも、私たちに必要なものを与えてくださいます。ですからイエスさまを信じる私たちは、すでにキリストにあって満たされているのです。大切なことは、神の子イエスさまは満ち満ちていることを信じることです。そして、私たちがそのイエスさまの御支配の中にいることを信じることです。そして、そのイエスさまに求め、頼り、委ねること

4 キリストのとりなしは完全

ところが、イエスさまだけでは足りないと思う私、イエスさま以外の何かを求めたい私がいます。私たちの中にも、空しいだましごとの哲学が潜んでいるのです。しかし、私たちには、御父の前でとりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられます。(Ⅰヨハネ2章1節)神の子、イエス・キリストの取りなしは完全です。私たちはどれだけ大きな罪をもっていても、そのままの姿で、イエスさまのもとにいくとき、完全に赦されます。私たちは、イエス・キリストの取りなしによって神の子とせられ、父なる神さまと交わることのできるものにされます。神の子イエス・キリストがこのように愛とあわれみをもって私たちに望んでくださるるのです。

5 キリストを「かしら」として

キリストはすべての支配と権威のかしらです。(10節)キリストはかしらです。神の国の司令塔です。そして教会は基督のからだです、私たちはそのからだの一つです。私たちは、キリストのからだとして、かしらであるキリストの御心のままに生きるものです。そのように、キリストがしてくださいます。私たちも、それぞれにキリストをかしらとして与えられた賜物をもって神さまと人に仕えていくことができるのです。

(2023年1月1日 石原 俊一 兄)

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