あなたがたは祝福となる(ゼカリヤ書8章13節~17節)

0 はじめに

日常生活の中で信仰者として生き続けることは簡単なことではありません。敬虔に信じて生きようとする私たちは、自分の欲望とと戦わければなりません。また、神に従うことを強いて選び取るときもあります。ところが、がんばって選び取ってもなんのむくいのないように感じるときがあります。信仰者として信じて生き続けることを疑問に感じることもあるかもしれません。
今日の御言葉は、それでも信仰に生きることを励ましてくれます。そして、そのような信仰生活の先に、どれほど多くの祝福が備えられているかを示しています。

1 勇気をだせ

ゼカリヤの時代は、バビロン捕囚の後、もう一度エルサレムに帰ってくることが赦され、立ち直っていこうとしていた時代でした。彼らは、悔い改め、再び神殿を再建しようとします。それは、簡単な歩みではでありませんでした。他国の妨害や他にやるべきときがあるという民の声がありました。そのような中で、神はゼカリヤを遣わして「勇気を出せ。」と語られます。本当に信仰で歩むことは勇気がいることなのです。神は、「あなたがたはこれらのことばを、預言者たちの口から聞いてきたではないか 」(9節)とあるように、神が御言葉をもって繰り返し約束していました。そこには、平安と豊かな救いが備えられていました。あなたがたにはその約束がある。だからこそ、信仰生活を中途半端でやめてはいけない。勇気をだしなさい。」と語られているのです。

2 あなた方は祝福となる

勇気出す根拠となる御言葉で、注目したいのは、「あなたがたは祝福となる」という言葉です。

(1)私たちが祝福される

「あなたがたは祝福となる」には二つの意味があります。
一つは、私たちが祝福されるということです。この言葉は、アブラハムに対して使われています。アブラハムは祝福の象徴として語り継がれています。わたしたちもまた祝福されます。私たちは、「祝福が歩いている」と言われるような存在となります。例え、私たちの思いと異なったとしても、神は、私たちが理解出来る祝福を生涯に備えておられます。1節には、「わたしは、シオンをねたむほど激しく愛し、激しい憤りをもってこれをねたむ。とあります。ねたむほどの愛をもって、私たちを祝福しようとしています。
私たちは自分の罪の現実を知っています。当時の民も同じでした。バビロン捕囚で自分の罪の現実を身につまされていました。しかも、目の前に荒れ果てたエルサレムがあります。彼らは、祝福から遠い姿を見せつけられました。しかし、神は、「裁きをもたらすのはわたしです。しかし、わたしはそれと同じようにあなたを祝福します。」と語っておられるのです。

(2)わたしたちは祝福の基

二つ目は、神が私たちをとおして、この世界を祝福する計画を立てておられるということです。神はアブラハムを通して、世界を祝福されました。アブラハムは祝福の基となりました。同じように、「私たちを通して、この世界が祝福される」というのが神の約束です。私たちをとおして、家庭、職場、地域、この世界が祝福されていくということです。
それは、あなたの存在自体が祝福だということです。私たちは何をするのではなく、クリスチャンとしてここにいるということが祝福であるということです。
私たちは、なかなかそのように自分を見ることができません。しかし、神さまが、「あなた方がここにいてくださって本当にうれしい」そう思ってくださっています。私たちの目には荒れ果てているしか見えないその場所で神さまは祝福を与えようとして見てくだいます。
大きな働きができなくてもかまいません。一日一日を誠実に歩むことの中に、神さまは私たちを祝福し、私たちを祝福の基としてださいます。神のこの祝福を思いながら、この世に出て行きましょう。

(2023年1月15日 永井 創世 師 文責 石原俊一)

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