三つの幸い(マタイの福音書4章18~22節)

0 はじめに

4:17「この時からイエスは宣教を開始し、」とあります。
それに続く出来事が今日の箇所です。宣教を開始されたイエス様は4人の漁師を弟子として召されました。この出来事の中に三つの幸いを見ることができます。

1 イエスさまとの出会い

一つめの幸いは、イエス様との出会いです。
出会いは人生の大きな要素です。誰と出会うかで人生が決まっていくと言ってもよいでしょう。良き出会いは人生の幸いです。二組の兄弟がそれぞれイエス様と出会っています。彼らは漁師であり、いつも通りの日常を送っていました。最初の二人ペテロとアンデレは「網を打って」いました。次の二人ヤコブとヨハネは漁を終えたのでしょうか「網を繕っている」のでした。彼らの側からすれば、イエス様と出会うことなど予想も計画もありませんでしたが、湖のほとりを歩いておられたイエス様は二人をご覧になり、さらに進んで行って二人を見たのでした。ですからこの出会いはイエス様の方から出会ってくださったと言えましょう。イエス様のまなざしが彼らに向けられた、そういう始まりでした。
私たちにもイエス様との出会いの時がありました。それぞれ自分の人生を送っていました。そんな私たちにイエス様は出会ってくださいました。そこから始まって私たちの人生は大きく変わりました。イエス様に出会えたことは私たちにとってなんと大きな幸いでしょうか。

2 イエスさまの招き

二つめの幸いは、イエス様の招きです。
彼らに出会ってくださったイエス様は、彼らを呼ばれました。「わたしについて来なさい」。招きにはわけがありました。「人間をとる漁師にしてあげよう」。「人間をとる」というのは頭数のことではありません。人間が生かされていくということです。囚われの中にある人々がいのちを得て行くということ。自分だけの幸いでなく、他の人たちも生かされていく人生への招きです。それにしてもなぜ彼らだったのでしょう。「ご覧になった」(18)「見ると」(21)は同じ動詞の同じ形で、その意味は、漠然と見ることではなくて、「そのものの内側を見て取る、洞察する」こと。
イエス様は彼らの裏も表も全部ありのままを知ったうえで、「わたしについて来なさい」と招き、「人間をとる漁師にしてあげよう」と言われるのです。彼らにも私たちにもたくさんの不足や欠けがありますがそれを含めての招きであり、育て、造り変えてくださるイエス様なのです。

3 イエスさまに従う

三つめの幸いは、イエス様に従うことです。
彼らは舟も網も父親もそこに置いてイエス様に従っていきました。イエス様に従うとはなんと大変なことなのでしょう。あれもこれも捨てなければならないのですか。それが幸いですか。イエス様に従うということは何をどれだけ捨てたかということではありません。20節にも22節にも「すぐに」という言葉があります。彼らの心が前に向かっていたことを想像させます。出会い、招いてくださるイエス様に引きつけられるようにして踏み出して行ったのでしょう。
「わたしについて来なさい」。今年も、イエス様との出会い、イエス様の招き、イエス様に従うことの幸いが深められますように。

(2023年1月29日 館脇 暁美 師)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です