「臨在の雲・導きの雲」(民数記9章15~23節)

1 はじめに

「幕屋が設営された日」(15)。これは出エジプト記40:17の「第二年の第一の月、その月の一日に幕屋は設営された」と重なります。その間にレビ記と民数記の9章までが挟み込まれています。

民数記9:15~23には、〈幕屋が建設された日のこと〉と〈その後の彼らの旅路の様子〉が記されていますが、ここには「雲が」と11回も繰り返されています。雲とは、神の臨在を現します。神がここにおられる、そのことを目に見えるかたちで神様が現して下さったものです。

2 臨在の雲 15,16節

「幕屋が設営された日」とは、単に幕屋が出来たということではなく、神がモーセに語られ、モーセが民に伝えたその一つひとつすべてのことがその通りに行われたということです。出エジプト記40章を見るとそのことがはっきりします。「モーセは、すべて主が命じられたとおりに行い、そのようにした」(16)とあり、「主がモーセに命じられたとおりである」と7回も繰り返されています。「そのとき、雲が会見の天幕をおおい、主の栄光が満ちた」(34)のです。民は神に従い、幕屋が完成した。それが「幕屋が設営された日」であり、そこを臨在の雲がおおいました。

幕屋が出来上がるまでの日々、うまくいくことばかりではなかったでしょう。問題が起こったり、足りなさを経験したことでしょう。それでも何度も神の御心に立ち返り、神の助けを仰ぎながら一つひとつ作っていったのだと思います。だとすれば、幕屋が完成し、そこを臨在の雲がおおった時、民はどれほど大きな慰めを受けたでしょう。私たちも自分の弱さや足りなさを覚えますが、何度でも神に立ち返り、一歩一歩神様に従って行きましょう。「私たちは生ける神の宮なのです」(Ⅱコリ6:16)。そこに神の慰めがあふれます。

3 導きの雲 17~23節

幕屋をおおった臨在の雲は、導きの雲でもありました。民は雲の導きに従っていきます。「主の命により」宿営し、「主の命により」旅立ったと7回も繰り返されています。「二日でも、一月でも、あるいは一年でも」(22)、神の導かれるままにとどまり、進む民でした。私たちもそうでありますように。自分の思いや願いはあるでしょう。けれど、導きの雲が動いたなら立ち上がって進み、動かない時にはとどまって待ちましょう。臨在の雲と共にあることこそが最も大切なことです。

4 心の旅路

臨在の雲、導きの雲、これは何をしてどのような決断をするかという外側のことばかりではなく、自分の心に向き合うこと、心の旅路でもあります。慌ただしく過ぎてしまいそうな3月、新たな年度、与えられた生涯、いずれも臨在の雲を導きの雲として、神の御心に従っていきたいと心から願います。

(2023年3月5日 館脇 暁美 師)

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