キリストとともに死に、キリストとともに生きる(コロサイ人への手紙2章12節~23節)
1 キリストとともに死に、キリストとともに生きるキリスト者
パウロは、コロサイ教会の人々が、だましごとの哲学に捕らわれてはいけない理由を20節に示します。
人はすべて古い肉、アダム以来持ち続けてきた罪の性質をもっています。しかし、キリスト者の古い肉は、イエスさまの十字架の死とともに死にました。それは、終わりではありません。イエスさまは3日後によみがえってくださったからです。それは、イエスさまとともに死んだ私たちにも新しいいのちがあたえられたことを意味します。
私に一番迷惑をかけてきた罪の性質、肉は死にました。神の子、イエスさまによって救いは完成しました。だから、死んでしまった肉を価値付けるようなことをすることは全く無意味です。だましごとの哲学にとらわれてイエス以外のものを求める必要は一切無かったのです。
2 異なった教えに捕らわれたコロサイ教会の人々の誤り
コロサイ教会の人々は、だましごとの哲学に捕らわれてしましました。つかんではいけない。味わってはいけない。さわってはいけないといった禁欲的な行動に走ってしまいました。当時の人々にとって魅力でした。それは、禁欲的な生活に勤しんでいる私、禁欲的な生活をするために努力する私に価値を置きたいからです。これだけ自分は頑張った、これだけ自分はやっただから自分は救われるとすると、何か満足感のようなものが付いてきました。自分にはこれだけ価値がある人間だと思いやすくなります。しかし、自分はこれだけやった。自分はこれだけ努力したという満足感は救いに対して何の価値もありません。それは、自分はこれだけできる存在であることをしめしたいという高さです。死んだ肉を満足させても何の意味もありません。コロサイ教会は誤った方向に進んでいたのです。
3 キリストとともに死に生きる者の歩み
バプテスマは、イエス・キリストを信じた者がキリストの体である教会に加わるために、キリストに対する信仰を表明する儀式です。もともとの意味は「浸す」という意味です。水に浸すことは、死んだ者を葬ることを意味します。古い人が死んで過去のものになったこと、つまり、キリストとともに死んだことを表明するのです。それとともに、浸し終わった立ち上がることは、キリストの復活に預かることを象徴しています。キリストとともに生きることを表明です。
イエスさまを信じたクリスチャンはすでに古い肉に死んでいます。そして、キリストとともに生きています。しかし、私たちはコロサイ教会と同じようにそのことを忘れてしまいます。死んだはずの古い肉を見て、自分はだめだと落ち込みます。死んだはずの古い肉をもちいて価値あることをすることで、自分が偉い存在になろうとします。しかし、私たちは「自分はすでにキリストとともに死に、キリストとともに生きているのだ」とう場所に戻って行けば良いのです。バプテスマによって表明した場所です。この場所に帰ってきなさい。この場所に留まりなさいとパウロはいいます。私たちも、この場所に留まりたいと思います。もし外れたら直ぐに戻ってきたいと思います。私たちにとって、キリストがすべてです。
(2023年3月12日 石原俊一兄)