わたしがよみがえりです。いのちです。(ヨハネによる福音書章17節~27節)
0 はじめに
罪のない神の子が、わたしたちの代わりに十字架に掛かり罪の裁きを受けて死なれ、三日目によみがえられました。そのよみがえりを記念する日がイースターです。今日は、そのイースター(復活祭)です。
1 ラザロとその家族
ラザロのよみがえりの記事は、ヨハネ11:1から始まっています。旅の途上にあるイエス様の所に、マルタとマリアの住んでいるベタニアから、ラザロか危篤なのできてほしいと言うことを伝える使いがきました。しかし、イエス様はそこに2日滞在されました。死んでしまったラザロは、姉のマルタとマリアと住んでいまた。この3人は、イエス様に愛されていると信じていました。また、イエス様も、わたしの友ラザロと言っておられますので、イエス様と親しくしていたことがわかります。
2 マルタの信仰
ヨハネ11:21~27節にマルタとイエス様のやりとりがあり、そこでマルタは、「主よ。もしここにいて下さったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」と嘆いています。マリアも同じ事を言っています。マルタとマリアは、ラザロがどんなに重病でも生きているときに一緒にいて下されば癒やしていただけた、死んでしまった今は、どうすることもできないと思っていたのでしょう。ヨハネ11:21,22のマリアの言葉は、イエス様がいて下さったら、死なずにすんだのにと嘆きつつ、イエス様が神にってくださったら何でもかなえられると信じているというのです。この時のマルタの、精一杯の信仰告白なのかと思います。
3 よみがえり、いのちなるイエス様
ラザロはもう生き返らないと絶望しているマルタに、イエス様は、「あなたの兄弟はよみがえります。」と語られました。この言葉をマルタは、当時のユダヤ人が信じていた、地上の生の彼方にある終わりの日の復活だと理解して、「私の兄弟がよみがえることは知っています。」と言いました。そのマルタの言い方には終わりの日のよみがえりを言われても、今、ラザロをなくした私の嘆き、悲しみにはちっとも助けにならない、慰めにならないというマルタの思いが表れているように感じます。更に、イエス様はマルタに、「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じるものは、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じるものはみな、永遠に決して死ぬことがありません。」と語られました。イエス様が伝えたかったことは、マルタが知っていますと言った遠い未来に復活することではなく、今ここにいるわたしがよみがえりなのだ、わたしが死によって終わることのないいのちなのだということでした。イエス様は、愛する弟の死の悲しみに打ちひしがれているマルタたちの所に来て下さり、「わたしはよみがえりです。いのちです。」と宣言して下さり、わたしを信じるなら、今、ここで、死の力に勝利するわたしの救いがあなたに実現する、あなたは終わりの日のよみがえりを、今生きている人生の中で確かに体験すると言ってくださっているのです。
そして、今日、イースターをお祝いしている私たちの所にも死に打ち勝ち、よみがえられ、今も生きておられるイエス様がいてくださいます。このイエス様は、日々の生活の中でも私たちに出会ってくださり、語りかけ、永遠のいのちを体験させてくださいます。この時点では、ラザロは死んで墓に葬られたままです。目の前の現実は、ラザロの死と悲しみと嘆きの只中です。しかし、その只中で、イエス様は「わたしはよみがえりです。いのちです。」と宣言し、「あなたはこの事を信じますか。」と問いかけられました。その問に、「わたしはあなたが世に来られる神の子キリストであると信じています。」と答えて歩んでいく中で、ラザロのよみがえりという現実を見ました。この世にあっては多くの苦しみ、困難、悩み、試練があります。そのような中で、よみがえりであり、いのちであるイエス様につながって共に生きていく中で、死の力に勝利する神の救いの恵みを見ることが出来るのです。
(2023年4月9日 木田和代 師)