神は世を愛された (ヨハネの福音書3章16節)
1 神は
福音を要約していると言われるこの御言葉は、「神は」と始まります。聖書の主語、福音の主語は、「神」です。聖書の一番初め、創世記1章1節「はじめに神が」と始まります。神様がおられて、まず神様が事をなさるのです。
2 世を愛された
「世」というのは、天地創造の始めには、神のいのちに生かされ、神の愛の中に生きていたのに、神の愛から離れ、以来神のいのちを失ってしまった人間、私たち一人ひとりのことです。ヨハネ17:14~人間は、一番大切なものをなくしてしまっています。そのことに気づかないままに生きています。神が分からなくなってしまい、神を拒む、それが世です。Ⅰヨハ2:15、ローマ12:2 神は、その世を愛されました。「愛された」ということばは、過去に愛したという単純な過去形ではなくて、もうすでにそのことは完全になされていて、どんな状況や事柄によっても変更されたり、消えたりしないということです。(ギ不定過去形 アオリスト時制)いったい神様は、私たちをどのように愛されたのですか。
3 実に、そのひとり子をお与えになったほどに
つまり、神様は、たった一つしかない、神様にとって一番大切なものを私たちに下さったということです。本当なら絶対に手放せないもの、ご自分にとって一番大切なひとり子、御子イエス様を、神様は「私たちに」与えて下さったというのです。これ以上の愛があるでしょうか。完全な愛と言える。これが神様の愛です。これほどの愛を私たちに注いでくださるのはどうしてでしょう。よほどの訳があるはずです。
4 それは、御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである
一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つため。つまり、私たちを救うためです。私たちは大切なものを失ってしまっていたのです。神様のいのちと愛という一番大切なものが欠けてしまっていました。それぞれ一生懸命生きているのですが、一番必要なものをなくしたままだったのですそしてそれは、自分では得ることができないのです。教会に来ると「罪」ということばを聞きます。聖書を開くと「罪」ということばがでてきます。それは、あなたがたはこんなに悪い人間だということではありません。神様から離れてしまっている、神様のいのちと愛を失くしてしまっている、そういう状態のこと、神様との関係、それが「罪」です。そこから、いろんな問題が起こってくるわけです。なぜ人間は悪を行うのか。神から離れてしまっているからです。そういう私たちを、神様は、見放したり、見捨てることがおできにならないのです。
ある時、イエス様が百匹の羊のたとえを話されました。(ルカ15章)羊は群れで飼うわけですが、そのうちの一匹が迷子になりました。百匹もいるのだから、一匹くらいいなくなってもいいじゃないですか。そういうこともありますよ。仕方ないでしょう。神様はそんなふうには考えることをなさらないというのです。もし一匹が迷い出ていなくなってしまったならば、「そのいなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか」。神様はそうなさるのですよと。そのための苦労や犠牲を惜しむことはなさらないのです。もし迷子の羊を見放してしまったら、その羊のいのちはない。崖に落ちるか、獣の餌食になるか、傷ついて弱っていのちを失うか。ですから、羊飼いはその一匹を捜しに、暗い闇の中に出て行くのです。
5 御子を信じる者が
事を行なわれる神は、人間の応答を待っておられるということです。では、信じるとはどういうことでしょう。3章16節の中で考えるなら、神が与えられたものを受け取るということでしょう。神は世を愛された。そのひとり子をお与えになった。 この神が差し出された愛、そのひとり子である御子イエス様を受け取ることです。
6 神は世を愛された
神様の愛は私たちの思いを越えて、何と大きいのでしょう。何と深く豊かなのでしょう。何と力に満ちているのでしょう。私たちにはできないことを神はしてくださいました。この愛は、私への愛です。世にある一人ひとりすべての人への愛です。
(2023年4月16日 舘脇 暁美 師)