愛されているものとして(コロサイ人への手紙3章12節)
1 私たちは神さまに選ばれている者
私たちは、「神に選ばれた者」です。神さまが選んでくだされば間違いありません。ここに私たちの信仰の大安心があります。神さまは私たちが立派だから選んだのではありません。私たちが、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者だから神さまが選んでくださったのです。それは私たちが実を結ぶためです。どのような実でしょうか。聖霊の実です。私たちは神さまに選ばれている者です。この世においては無に等しい者です。しかし、ひたすら神さまを思い、神さまに頼り、神さまが与えてくださる実をいただいていく者なのです。
2 私たちは聖なる者
私たちは、「聖なる者」です。「聖なる」という言葉は、別なるもの、他なるもの、他者なるもの、という意味を持っています。聖なる神という場合には、神さまがこの世に対してこの罪の世に対して俗な世に対して神はまったく別なる存在であることを表しています。ですから、私たち人間がいくら修行して、努力して自分を高めていっても聖なるものにはなれません。
神さまは私たちを「聖なる者」と呼んでくださいます。それは、それは、わたしたちがイエスさまを信じたとき、「キリストのもの」となったからです。私たちは、罪にまみれた聖どころか全く罪の中に存在するものでした。しかし、イエスさまを信じることによってこの世のものに対してイエスさまの十字架で死に、イエスさまにあって生きています。私はイエスさまのものです。だから私はこのキリストによってこの世からはっきり区別された「聖なる者」なのです。
3 私たちは愛されている者
私たちは、「愛されている者」です。私たちは、アダムが知恵の木の実を食べてしまって以来、「神様のいのち」と「愛」という一番大切なものを失ってしまいました。それぞれ一生懸命生きています。それぞれ幸せを求めて生きています。しかし、一番必要なものをなくしていまったままです。
そのような私たちを、神様は、見放したり、見捨てることがおできになりませんでした。そこで、神さまは、たった一つしかない、神様にとって一番大切なもの、イエスさまを私たちにくださいました。本当なら絶対に手放せないもの、ご自分にとって一番大切なひとり子、御子イエスさまです。イエスさまの十字架に神さまの大きな愛が現されています。イエスさまは、滅びるしかない私たちの身代わりとなって十字架にかり死んでくださいました。それは、神さまを信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。つまり、私たちを救うためです。これより大きな愛はありません。私たちは愛されているのです。
4 選ばれた者、聖なる者、愛されている者として
「神に選ばれた者」、すなわち、この世において無に等しい者は、ひたすら神さまに頼ります。ひたすら、上にあるものを求めることしかできません。すると、私たちに御霊の実がなります。
「聖なる者」であり、聖なるイエスさまによって用いられるものであることを心から信じる者は、イエスさまがもっている御性質が私たちの中に表れていきます。「愛されている者」が神の愛を深く信じていくとき、私たちは、自分の価値が分かってきます。そして、同じように神さまが「高価で尊い」と言われている回りの人々を愛することができるようになっていきます。
私たちは、私たちが、「神に選ばれた者」、「聖なる者」「愛されている者」であることを本当に信じると、イエスさまの御性質が私たちをとおして表れます。それが、イエスキリストを着ると言うことです。私たちは、イエスキリストを着ることで、慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容なものになっていくのです。
(2023年4月23日 石原 俊一 兄)