わたしが道(ヨハネの福音書14章6節)
0 十字架を前にして
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」最後の晩餐の席でイエス様が語られたお言葉です。イエス様はこれから進んで行く十字架の道を見ておられましたが、弟子たちにはイエス様が行こうとしておられる道が見えませんでした。ペテロは言います。「主よ、どこにおいでになるのですか。」…「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。」(13:36~)。心騒ぐ弟子たちにイエス様は言われました。「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。…わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています」(14:1,4)。トマスが答えます。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか」(14:5)。イエス様と共に歩んでいた弟子たちなのですが、その道が分かりませんでした。
私たちはどうでしょう。心に問いかけられる声を聞きます。「私は道を知っているだろうか」「私はその道を歩いているだろうか」「私にとってそれはどのような道なのだろうか」。
1 わたしが道 私は道を知っているだろうか
指先一つでありとあらゆる情報を得ることができる時代です。便利ですが複雑でもあります。一つのことにもいろいろな考え、判断があります。それらをじっくり考える間もなく次から次へと思いもよらぬことが起こります。あふれる声の中で、聖書から一つの声が聞こえます。とても短い、けれどとてもはっきりとした声です。
「わたしが道」。こんなにも明確で澄み切った声を他に聞くことができるでしょうか。
2 真理であり 私はその道を歩いているだろうか
もしも言葉だけだったら、そこに力はありません。どんなに立派な事を言っても、どんなに正しいことを言ったとしても、していることがまるで違っていたら、誰がその言葉を信じることができるでしょうか。イエス様のご生涯は、語る言葉とその歩みとがぴったりと重なって一つであり、少しも矛盾がありませんでした。これを「真理」というのです。真理とは、「作り事とか想像的なものに相反して、事実であること。ある概念に完全に達していること。現実に表れと一致していること、依存できることで、失敗したり、変わったり、失望させないこと」(ウエスレアン神学事典より)。多くの人々に愛されている「馬ぶねの中に」という讃美歌にはそのことが歌われています。
私たちは道を知っているというだけでなくこの道(真理)を歩いているでしょうか。イエス様と重ねられて一つにされていく道です。
それは行いの完全さではありません。キリストの心に心を重ねていくこと(ピリピ2:5)、キリストにひたすら信頼する歩みです。
3.いのちなのです 私にとってそれはどのような道なのだろうか
イエス様が道です。その道は真理です。そしてこの道はいのちです。イエス様は十字架で死なれました。すべての罪の価を払って下さったのです。そのイエス様は三日目に復活されました。復活のいのちは、もはや何によっても滅ぼされることのないいのちです。イエス様という真理の道を行くということは、このいのちに結ばれ生かされているということです。ですから、恐れなくてもよいのです。安心して歩いて行けるのです。ゆっくりでもいいのです。一歩ずつでよいのです。「わたしが道」。今日もこの声が心に聞こえてきます。
(2023年4月30日 舘脇 暁美 師)