平安があるように(ヨハネの福音書20章19~31節)

0 はじめに

この箇所でイエス様の「平安があるように。」という言葉は3度繰り返されています。ここから、私たちが理解しなければならないことは「イエス・キリストは弟子たちの不安や恐れをよく理解されていた。」ということです。ヨシュア記には「恐れてはならない」という言葉が繰り返されています。それは、モーセの後継者となったヨシュアの心に大きな恐れがあったことを暗に示しています。弟子たちの内にも、大きな恐れがあったゆえに、イエス様は「平安があなたがたにあるように」と3度語られたのです。

1 弟子たちが信じやすいように

自分たちの主であり、師である方を十字架刑により失った弟子たちは、大きな恐れと失望の中にいました。そんな弟子たちにイエス様は復活した自らの姿を表わされました。しかし失望の只中にいた弟子たちは、主の復活を喜ぶ以前に、主が目の前に現れたこと自体に大きく戸惑ったことでしょう。イエス様はまず弟子たちのその不安を取り除き、彼らが信じることが出来るように、自らの傷を弟子たちに示すところから始められました。その姿から導き出される結論は、大いに弟子たちを励ました。

2 弟子たちの使命と働き

弟子たちが抱えていた恐れは、イエス様を失った痛みだけではありません。「主がいなくなり、これから自分たちはどのように生きていけばよのだろう。」「これまで主と共に行ってきた伝道の働きは全て無に帰すのか。」などど、彼らには、自分たちの歩みに対する不安があったのです。イエス様は弟子たちに自分の使命を継承させ、これからも伝道を続けていくことを命じました。同時にその使命のため欠くことのできない聖霊なる神も与えらました。

3 主である方を裏切った痛み

私たちが忘れてはならないのは、イエスが、自分を見捨てた弟子たち(ヨハネを除く)に「平安があるように」と語られたことです。弟子たちの心の中には「主を裏切った」「主を見捨てた」という思いが深く存在していたことでしょう。直接的ではなくても、「平安があるように」という主の言葉は弟子たちを苦しめていた罪の意識に赦しを与える一面がありました。

「平安があるように」という言葉は、今も、主を信じる者たちに語りかけられています。弟子たちのように恐れや苦難の中にあっても、主の平安は私たちの内に実在しています。

(2023年5月7日 高橋 拓男 師)

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